投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月 5日(金)15時08分39秒  

災難が起こる根拠と証拠を問われた主人は、その文証として金光明経、大集経、仁王経、薬師経の四経の文を引いて説明します。しかし、この四経は法華経以前に説かれた、いわゆる「爾前経」です。
大聖人は、諸御書のなかで無量義経や方便品を引用しながら、この爾前経を徹底的に破折しています。しかしなぜ、爾前経を破折しておきながら、爾前の経々を文証として引用されたのでしょうか。

これについては「観心本尊得意抄」にこうあります。
「一北方の能化難じて云く、爾前の経をば『未顕真実』と捨て、乍ら安国論には爾前の経を引き文証とする事、自語相違と不審の事、前前申せし如し。総じて一代聖教を大に分つて二と為す。一には大綱。二には網目なり。・・・・・法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり。其の上、法華経にて実義有る可きを、爾前の経にして名字計りののしる事全く法華の為なり。然る間、尤も法華の証文となるべし」(九七二頁)。

※長いので間を抜きました。

つまり、その意味は「成仏得道の経は、法華経にかぎるが、それ以外のことについては、その他の経文に明かされている。成仏の本体を法華経なりとすれば、一切の経々はすべて活かされてくる」ということです。
法華経以外の経典はすべて、切り捨てるのではなく、人類に有益なことは、内外(内典・外典)問わず、すべて活かしていこうとするのが、大聖人の思考であり、大乗仏教の精神です。
池田先生が世界の「知性の言葉」を引用し、仏法哲学を表現しているのもそのためです。

つまり、宗派を超えて、人間という原点に立ち返り、世界の知性を結集して、現実社会に仏法を展開していこうとする挑戦です。これが価値を創造する「創価学」思想の根本だと思います。

池田先生は「華厳経それ自体としては、四十余年未顕真実の教えであり
『死の法門』であるが、ひとたび、法華経の立場で用いれば、十界互具、一念三千の
説明として生かされ『活の法門』となる」(池田大作全集二十五巻)と述べられている通りです。