投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月 5日(金)15時07分12秒
 
立正安国論の冒頭で、客は社会や民衆の悲惨な様相を嘆き、「是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤りに由るや」(一七頁)と主人に問います。この客の最初の問いは、指導者一人だけの問いではなく、全民衆が感じている問いでもありました。そこで主人は、「神天上の法門」を示します。

客からすれば、意外にもその答えは、「万民が正法に背き」、
「善人・聖人(良識・道理)」が「国を捨て去って(良識・道理が通らない世の中になって)」、
その代わりに、「魔王・悪鬼(力の論理・悪思想)」が世の中に幅を利かせてのさばり、「国中に災難が起こる」というのです。
この答えは、仏法を知らない客や仏法を習い始めたばかりの会員にとっては驚きだったと思います。
そしてそれは、現代においてもなかなか理解されない原理だと思うのです。

客が「それはどこの経文に書いてあるのか、その証拠と根拠を聞きたい」というのも当然です。
しかしこの哲理は、厳しき一念三千の生命哲学による社会観であり、宇宙観であり、日蓮大聖人の大確信であり、絶対の真理であると思います。
その大確信なくして、あれだけの大難を乗り越えることなど不可能だったと思います。

また「客」が主人の意外な答えを聞いて、謙虚にその理由を聞こうとする姿勢は、人間として、指導者として、また対話をしようとする人のあるべき真の姿です。
偉大な人、心ある人であれば、未知の世界にはたえず謙虚であるべきです。
そこに会員である、ない、は関係ありません。
でなければ、相互理解の対話などできるはずがありません。

ましてや、人類が「恒久平和か、滅亡か」の岐路に立たされているときに、
新たな方途を見いだそうと努力するのが、為政者や、指導的立場の人の当然の姿です。

これが、王道か覇道か、人間主義か権威主義かの試金石ではないでしょうか。