投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月 5日(金)15時05分12秒
 
この文は「民衆の苦悩の根本原因は何か」ということを、徹底的に探究していく姿勢こそ、真の指導者のあるべき姿であり、日蓮門下の使命ではないか、という大聖人の叫びとも取れる言葉です。
立正安国の原理には二つの側面があり、一つは、立正がなければ安国の実現はない。
立正を根本として戦いを進めていくなかに、安国の実現がある、ということです。

もう一つは、安国のなかに立正を確立していく。
つまり、現実の社会を生命尊厳の社会に変革していく戦いのなかに、立正が輝いてくる、という二つです。ここでいう「社会の変革」とは、突き詰めていえば「民衆の変革」のことだと思います。
安国の「国」とは、安国論を読めば明確ですが、国家中心の国ではなく、人間中心の国であり、民衆が中心の社会ということがわかります。

さらに「国」を国土という面と、社会という面に立て分けて考えていけば、社会といった場合は、その本体は何かといえば、民衆なのです。

もちろん、国家の機構・体制ということもありますが、その主体はあくまでも民衆です。
しかし、今の社会やあらゆる組織体制というのは、あまりにも機構・体制に偏っていて民衆不在になっています。これを民衆という原点に戻さなければ、民衆が組織機構の奴隷になりかねません。
なぜなら、「安国」の精神や元意も、民衆を安んずるというところにあるからです。

また、国土という面からも、安国論が「自然と人間」という視点から説かれている、ということを忘れてはならないと思います。
これは自然と人間の関係性のうえから、いかにして災害を根絶し、平和楽土を創造していくべきかという原理を示しています。大聖人は、三災七難が起こる真っ只中で、民衆の苦悩をわが苦悩とし、立正安国論を著されました。

創価三代の師匠も、世界的な三災七難が起こる中で、安国論を旗印に、立正安国の運動を展開してきました。立正安国論は、過去の書物ではなく、厳然と、今も現代社会の実像を映し出す明鏡であり、未来を開くカギなのです。