投稿者:イササカ先生
投稿日:2015年 2月27日(金)15時39分39秒  

その池田先生の一念は「いかなる人にも使命が必ずある」として、
それを訴えながら、人々を尊重して導くことを「第一義」としました。

それは「妙法の下に、誰びとも平等であり、そして誰びとも此の世の使命があることを――日蓮大聖人の仏法が教えているからだ」と指導されました。これらが人間革命第十巻に描かれた「師弟の道」と「師弟不二の道」の違いです。

話を「教学レポート・遠藤文書」にもどしますが、二つの文書に込められた「教義改変と会憲の問題点」と「教導願い」は、まさに、池田門下生の弟子たちは「師弟の道」を選ぶのか、それとも「師弟不二の道」を選ぶのか、
という、根本命題を執行部に突きつけた”諫言の書”だと思います。

宿坊の掲示板に登場する信濃町の人々さんは、昭和五十四年問題がすべての根源である」と訴えています。確かにその通りだと思います。
昭和五十四年、当時の執行部は「師弟の道」を選び、池田先生を辞任させました。それ以降、名誉会長となった先生は、全国の池田門下生たちに、再び、
本格的に「師弟不二の道」を同時中継を通して教え、第二次宗門問題を勝ち超えてきました。

しかし、五十四年当時の執行部の残党は今も信濃町に居ます。
そして五十四年の時と同じように、池田先生の指導
(※教義会則における”大御本尊の記述変更”の報告書に対して、池田先生の指導「そこまでする必要があるのか。
今は事件を起こしていくというのは小さな考え方だ。もう少し流れの様子を見ていきなさい」という明快な言葉)に、「合一」することなく事を進め、先生の方針をないがしろ《不同》にし、創価学会の永遠の師である池田先生の威光を利用しようとしている――。

現在の学会組織の実態(団結の姿)は、人間革命十巻にも示されているとおりの
「残念ながら信心のうえを滑走して、形式的なものに堕さざるをえなかった。
笛吹けども人踊らず、最高責任者の交代を途中から余儀なくされる事態まで進んだが、時すでに遅く惜敗を招く」
様相を呈しています。この現実を見た時に、
いったいどちらが「分派者・反逆者・師子身中の虫」なのか、

また、どちらに「正義」があるのか――。