投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 4月 3日(金)10時30分19秒     通報

本部のインフラ整備から始まった大誓堂の建立。創価学会版正本堂のごとき建物を、何故建立したのかと失笑したものである。いまさらこのような礼拝施設は必要であろうかと思った。宗教チックな建物は在家団体である創価学会にはふさわしくないであろうし、政界にも進出し、社会的団体としての色彩も帯びていたところである。時代に逆行するような施設をよくぞつくったものである。

世界広宣流布の観点からみると、日本などというのは、わづかな小島に過ぎない。SGIの一つの国に過ぎないのである。人口面から考えても、1億人ちょっとの国でしかない。世界の広がりから考えると、聖地もどきの特定施設は別に必要はない。あってもなくてもどちらでもよい建物である。教学部レポートを読むと、教義変更は大誓堂建立に合わせて推進する予定だったようだが、これ、まさに便乗である。

当面、誰も困らない教義を急いで変更したのは一体なぜなのか。考えてほしいのは、「自分が会長だったらこのような判断をしたかどうか」であります。教学部のトップが懸念を示し、まったく準部ができていないのに、強行的に進めるようなことをするだろうか。困惑する会員がでることもわかりきっている中、準備不足で事をすすめることが果たして正義か否か。仏敵からの攻撃に対しても、自分がすべての矢面に立つことを前提に考えてみてもらいたいものです。誰かではなく、全責任が自分にあったとしたら、教義変更の一連の責任をとれるか否か。

一念の狂いは、すべての狂いに通じる。御本尊というもっとも重要な教義を変更するのならば、一念の狂いは一切許されない。なぜなら、全会員に関わる問題だからである。肯定、反対、中立等の様々な意見があるのは当然として、それ以上に重要なのが、執行部の根底の一念である。私はここが狂っているから、このような雑な教義変更として具現化し、対応もひどいのではないかと考える。実に無様ではないか。その結果として、仏敵に笑われる始末なのである。

一念だけはごまかせない。必ず現実の形となってあらわれ、本末究竟等する。それが仏法であり、だからこそ一念が重要なのである。人生とは自身の一念の反映であり、そこに狂いがあれば人生が狂う。自身の一念を仏の一念へと変革することが仏道修行であり、それが成仏の境涯というものでしょう。すべての事象を、仏の一念へと変革するためのものであると、とらえるところに価値がある。難があるからこそ、自分と向き合える。これ即ち、仏の一念へと変革できるチャンスである。

もしも今回の教義変更が、仏の一念ではなく、名聞名利の一念、提婆達多の一念、師敵対の一念等で推進されたとしたらどうであろうか。仏の一念であったのなら、教学部レポートは流出しただろうか。それとも教学部レポート自体を魔の働きとしてとらえるのだろうか。何度も言いますが、言葉はつくろうことはできるが、一念だけは絶対にごまかすことはできない。そして、仏法者というのは、一念を鋭くみていくものである。

「一切衆生を仏にしたい」、これこそが仏の一念である。広宣流布とはすべての人を仏にする戦いであり、そのために自分のできることを全力でやること、それが最極の人生であり、無上道である。仏の一念を根本とすることが、信心をするということであり、それが信心していない人との違いである。仏の一念の中に絶対的幸福の道があり、それ以外は何の保証もない道である。どこにつながっているかわからない危うき道である。