投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 4月 5日(日)09時48分55秒     通報

・同志の歌様

大事故も、小さなミスや油断が一定数に達した時に起こるように、組織の狂いも、わずかな一念の狂いが積み重なって起きるものでしょう。だからこそ、ちょっとした振る舞いにすべてが含まれることを知らねばならないし、そこを大切にするのが仏法者の姿勢だと思うのです。幹部に話を聴く姿勢があるのかないのか、こういうちょっとしたことが出来ないだけで、致命傷となっていく。

もう一つ確認しておきたいことは、内部の戦いにおいて、僭聖増上慢は会員に「仏の如く敬われている最高幹部」の中にいるということです。仏の如く敬われるとは、尊敬され、信頼され、この人が過ちを犯すわけがないと慕われている人こそが、僭聖となり得る存在であります。今の執行部どうこうはおいておいても、今後の学会において、この視点を忘れないことが大切であると考えます。力があればあるほど、慢心に陥りやすく、そういう己心の魔との壮絶な戦いが現実です。ちょっとした一念の狂いがあったとしたら、食い破られます。漆千杯に蟹の足一匹の通り、わずかなミリ単位の狂いですら、恐ろしい結果を生みかねないととらえてこそ、はじめて魔に勝つことができる。ここに仏法の厳しさがあるように思います。

そして、狂っている人間には、自分の狂いに気づかないという傾向があります。もしも心ある人が諌めても、話を聴かないようならば危ない。話を聴けない自体が、もはや狂っている姿に他ならないからである。執行部は何故、心ある教学部の声に耳を傾けなかったのか。この一点を見れば、どんなに正当化しようとも狂いがあることがわかるものであります。