投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月16日(日)09時48分37秒    通報 編集済
ここで、さらに御書を拝したい。
大聖人は「窪尼御前御返事」に、次のように記されている。

「人をも・わづらはさず我が心もなをしく我とはげみて善根をして候も仏にならぬ事もあり(御書一四八六頁)

――理不尽に人を苦しめて得たもので行う供養は善根とはならない。
また、人をもわずらわせず(困らせず)、なおかつ自分の心も正直で、みずから励んで善根をしても仏にならないこともあります――。

どんなに、こちらが真心の御供養をしても、成仏できない場合があると教えられている。
それは、どういう場合か――。

「いはくよきたねをあしき田にうえぬれば・たねだにもなき上かへりて損となる、
まことの心なれども供養せらるる人だにも・あしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる事候」(同頁)

――たとえば、良い種を悪い田に植えると、種がだめになるばかりか、すべての努力がむなしく、かえって損になるようなものです。
たとえ、こちらが真心をこめても、供養される人が悪ければ、功徳とならず、かえって悪道に堕ちることがあります――と。

《種》を生かすには田を選ばねばならない。
成仏の《種》である、せっかくの信心の《真心》を《悪田》に捨ててはならない、との仰せである。

「心こそ大切」であるが、その大切な「心」の種子を花開かせ、
実を結ばせるには、悪にだまされぬ「賢さ」が必要なのである。

また大聖人は「四条金吾殿御返事」に、このように述べられている。
「我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人人は・かへりて失あるべし、
日蓮をうらみさせ給うな少輔房・能登房等を御覧あるべし」(御書一一六八頁)

――わが一門の中でも、信心を言いとおされない人々は、初めから信じないよりもかえって罪が大きい。
地獄に堕ちて、その時、日蓮をうらんではなりませんよ。
少輔房、能登房ら退転した門下の末路を、よくごらんなさい――と。

【第十八回全国婦人部幹部会 平成三年五月二十五日(全集七十七巻)】