投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月16日(日)09時49分30秒    通報
「申しとおす」
「主張し続ける」
「信心を貫きとおす」――そうでなければ、かえって罪になると厳しく戒めておられる。

少輔房や能登房というのは、門下の僧でありながら、大聖人に敵対した悪侶である。

このころ(建治三年)にはおそらく、その悲惨な仏罰の姿が、だれの目にも明らかになっていたのであろう。

また、大聖人は「日蓮をうらんではなりません」と。
以前にもお話ししたが、同趣旨のお言葉は御書に数多い。

退転した人々は、苦悩の境涯に堕ちてから「日蓮をうらむ」という性癖がある。
このことを熟知されたうえで教えられている。

退転したゆえの苦しみ。
それは、生命の内奥では、想像を絶するほど寂しく、暗い、苦悶の境涯となる。
もっていき場のない苦しみ、瞋り――《生命の地獄》である。

もっていき場がないゆえに、その苦しみを、大聖人にぶつけるのである。
そうだとすれば、筋違いもはなはだしいが、この心理は、現在も共通する。

学会ほどすばらしい、あたたかな民衆の和合の団体は、絶対にない、
このうるわしい真心の世界にいられなくなり、学会から去っていった退転者、背信者らは、
みずから落ちこんだ、やり場のない地獄の苦しみを、学会への《うらみ》に転化し、誹謗、中傷するのである。

文字どおり自業自得なのだが、自分が悪いとは絶対に言わない。

また大聖人御在世当時は、伝統と権威のある「法華経」の信仰をけなすことはせず、
眼前の大聖人を非難した。

今は、御本尊への信仰を批判することはないが、その御本尊を弘めている学会を攻撃する。
状況は違っても、その心理は、まったくよく似ている、と私どもは思う。

御書には「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(御書一一九〇頁)

――過去および現在の、末法の法華経の行者を軽蔑し賤める、国王・臣下(権力者)、
万民は、はじめは何事もないようであって、最後には滅びない者はない――と記されている。

仏法は厳しい。感傷や人情論ではなく、宇宙の法則であるからだ。

大聖人の仰せどおりに正法を持ち、広宣流布しゆく学会は、仏意仏勅の団体である。
その学会を利用し、傷つけようとする罪が、どれほど大きいか。
また、そうした広布の陣列を離れていった人々の末路が、いかにみじめなものであるか。

「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」との厳然たる《裁き》のお言葉は、
これまでも真実であったし、これからも必ずそうなっていくであろう。

第十八回全国婦人部幹部会 平成三年五月二十五日(全集七十七巻)】