投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月14日(金)09時08分22秒    通報
しかし、その後も、彼に対する執拗な攻撃は、やむことはなかった。

一六七三年二月、死が訪れたとき、モリエールは、
「不信心者」として僧侶の立ち会いを拒否され、国王の保護でやっと葬儀ができたほどだった。

「えせ宗教家」は、死者を悼むどころか、冷酷な本性のキバをむき、ここぞとばかり、彼に復讐し、権威を見せつけようとしたのである。

何のための宗教か、何のための聖職者か――。
モリエールは、その人生の終幕まで、「本物」と「偽物」を明白に映し出した。

役者でもあった彼は、舞台に生き、そして舞台に死んだ。

最後の日。
胸を病み、出演するのは不可能な体調であったが、劇団の座長として
「わたしが芝居をしなかったら、劇場に働いている五十人の人たちはどうなるのだ」(前掲)と、無理をおして出演。

苦痛も笑いでまぎらしながら、最後まで舞台を務め、幕がおりるや、そのまま倒れた――。
五十一歳であった。

筆を持ったまま死んだと伝えられるプラトンの姿をほうふつとさせる。
みずからをかけた「使命」に生きぬいた人生であった。

戦いぬいた。ゆえに美しかった。
己を曲げなかった。ゆえに崇高であった。
たくましく現実に挑み続けた。
ゆえに新しい歴史を開いた。
民衆に根を張っていた。ゆえに迫害はあれど、最後には勝った。

モリエールが生きた十七世紀。
この時代の底流を「宗教から人間論へ」と表現する人もいる。

神の権威によって一切が決められていた時代から、「人間」を自分の目で探究しようとする流れに変わった。
その潮流のなかで、デカルトが、パスカルが、またミルトンが、スピノザが、「人間」を自分の目で観察し、考えぬき、近代の扉を開けた。

「人間の世紀」――それを開くためには、彼らは、どうしても偽善者、特権階級との対決は避けられなかった。
こうして、後のフランス革命、人権宣言等への土壌をつくっていった。

モリエールの戦いも、この潮のなかに位置づけられる。
そして時とともに輝く「偉大な人間学」を後世の人類に残したのである。

【海外派遣メンバー、各部代表者協議会 平成三年四月十二日(全集七十六巻)】