投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 3月24日(火)10時34分14秒     通報

戸田先生 方便品寿量品講義より
「南無妙法蓮華経とは、法華経の行者の宝号でありまして、日蓮大聖人御自身の御生命であります。されば南無妙法蓮華経とは何かといわれたならば、末法御本仏の御名前であると申してさしつかえありません。つきつめていえば、日蓮大聖人の御命と断じてさしつかえないものであります。日蓮大聖人の御生命が南無妙法蓮華経でありますから、弟子たるわれわれの生命も同じく南無妙法蓮華経でありましょう。」

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もしも法本尊(南無妙法蓮華経)のみであったら、妙法ありきの我々という構図となり、体一ではなくなる。人本尊があってはじめて、妙法=生命が成り立つ。妙法蓮華経とは、大聖人のことであり、また我々のことである。まったく差別のない存在であり、別々の存在であるととらえるのは誤りである。正義の走者様の指摘にあるように、大百蓮華の「大聖人は、この大法を御本尊として顕されました」との表記は、法ありきの大聖人という解釈となる。大聖人の魂を墨にそめながして認められたのが御本尊であり、御自身の命をそのまま顕されたというのが正確な表現ではないか。

南無妙法蓮華経が大聖人の御命そのものだからこそ、御書根本が大事であり、大聖人の精神に背いてはならないのではないか。いくら本尊と題目が正しくても、間違った信心では、大聖人にお叱りを受けるので功徳が出ないというのが日蓮仏法ではなかろうか。心こそ大切なれとはまさにこのことであり、形だけあっても駄目でありましょう。これをはき違えると形式主義、教条主義に堕し、かえって大聖人の精神を歪めてしまうことになる。

では、その正しい信心とは何か。それを教えてくれているのが創価三代の会長であり、だからこそ永遠の指導者としたのが創価学会でしょう。先生の指導は羅針盤であり、指導に違えないように広宣流布を推進していくのが弟子の姿勢であり責務である。だからといって、完全に指導通りにすればいいというものではない。時代に合わない部分はある程度は変更していけばいいと思うし、それは価値的に展開すればいいのだが、問題はその際の「根底の一念」である。指導には必ず意味があり、その真意を十分くみ取れているかどうかが大事であり、簡単に時代に合わないからといって変更することは許されない。そうなってしまえば、都合の悪い指導を削除していく流れとなり、結果的に師を愚弄する師敵対となる。もしも信心のない人間が、重要な判断を下すようになったら危ない。

今回の教義変更を推進した人間の根底の一念が「世界広宣流布」であったのなら、こんな騒ぎにはならなかったでしょう。ましてや、教学部レポートや遠藤文書が流出することなどあろうはずがない。何事も信心の眼でみなければ真実はわからない。新聞では「時代を画する壮挙」と自画自賛しているが、その裏で、懸念や混乱困惑している学会員がいることに対してはスルーですか。多少の犠牲はやむを得ないというのは大聖人の精神に反することは明らかであり、お叱りを受けること必定。こんな体たらくで、SGIの指揮を執るなどというのは土台無理であり、分を弁えてもらいたいものである。SGIの足を引っ張る存在となるのがオチであり、SGIが組織第一主義の日本から学ぶことは何もない。発祥の地という自負が日本をダメにし、煙たがられる。

いよいよ世界(SGI)に学ぶ時代が到来した。日本は限界を迎え、いままでの在り方では衰退する以外にない。変われなかったら滅びるだけであり、そこに気づけるかどうかが鍵である。