投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 3月22日(日)09時59分45秒     通報

2015年3月4日付 創価新報 青年部座談会より
「『過去の学会指導と整合しない』との難癖についても、彼らが持ち出してくる過去の指導は、僧俗和合当時の都合のいい切り文ばかりじゃないか」

「『過去と整合しない』と言うのなら、学会を賛嘆してきた歴代法主の言葉は、どう説明するのか。そのまま自分たちにはね返ってくる;ブーメラン;だよ(笑)」

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なんともまあ、残念な内容の座談会となっていて、がっかりしました。過去との整合性についての説明が全然なされておらず、所謂「お前だって論法」の切り替えしをしている始末である。これ、論理のすり替えである。「他教団に言われる筋合いはない」というのも、お前だって論法であり、青年部座談会でも「大聖人の御精神に背く謗法の日顕宗に、とやかく言われる筋合いはない」と。教義変更の対外的なアプローチは、結局のところ、お前だって論法を根本とする姿勢が窺える。宗教界の王者としては情けない限りである。

対外的には、この力技で済ませることはできるかもしれないが、整合性については内部においても懸念の声があがっている。それに対しては、お前だって論法は通用しないので、しっかりとした説明が必要ではないか。戸田先生の指導等を、あくまでも僧俗和合時代という過去の括りとして切り捨てるのか。また、池田先生の破門後の指導である、大御本尊への信心はいささかも変わらないという内容はどう位置づけるのか。破門から数年後なので、会員に配慮しての指導という括りにするのか。この辺りもはっきりしてもらいたいものである。

宗門が「弘安2年の御本尊を否定した」と難癖をつけてきていると言っているが、これに対しては、「『受持の対象としない』とあるだけで、否定などしていない」と。内部のメンバーでも、勘違いする人はするし、そもそもわかりづらい。創価学会のいう、受持の対象とはしないということは、一体いかなることなのか。実のところ、はっきりはしていない。今だに御観念文で、大御本尊に南無し奉っていますが、受持の対象としていない本尊に南無し奉るというのは、それは受持の対象ではないのか。しかも、御観念文は変更しないという方針の様なので、ますますよくわからない。準備不足の行き当たりばったりの対応だからこのような事になる。

下から上を変革することなど、上の人間は望んではいない。下の意見は不要であり、必要なのは、上の方針通りに行動してくれる人間だけのようである。だから、一人ひとりは考える必要もなく、上が決めたことに、いかに合わせていくかが団結であり、異体同心であると。そういうことでいいんですよね。正義とはまさに上層部の方針であり、右と決めたならそれが正解であり、左と決めたならそっちが正解となる。所詮、そのような世界観なのだと思う。

学会の中で偉くなりたければ、「いかに幹部を喜ばせるか」、これを考えていけばいい。会員第一でもなく、組織第一でもなく、幹部第一。会員そっちのけで、幹部を喜ばせれば、その身は安泰であり、居心地もよいでしょう。54年の時の多くの幹部は、「時流には逆らえない」との最高幹部の方針に従っただけなのだろうが、そこには自分の意志というものは存在しなかったのではないか。翻って現代において、自分の意志を持っている幹部がどれほどいるのだろうか。甚だ疑問である。