【王者の論と賢者の論】池田先生指導②
投稿者:河内平野 投稿日:2014年11月10日(月)16時40分37秒

さらに王は尋ねる。
それでは「王者の論」「権力者の対話」は?。

ナーガセーナは答える。
「実にもろもろの王者は対論において、一つの事のみを主張する。
もしその事に従わないものがあるならば、『この者に罰を加えよ』といって、その者に対する処罰を命令する」。

ミリンダ王は、ナーガセーナの言葉をよく理解した。
「尊者よ、わたくしは賢者の論を以って対論しましょう。
王者の論を以っては対論しますまい。
尊者は安心し、うちとけて対論なさい」。

こうして、二人の長い有益な対話が始まるのである。
その後の対話については略させていただくが、ここには、実りある対話を成り立たせる基本が示されている。

それは、平等な対話を根幹としてきた釈尊以来の仏法者の姿勢でもある。

すなわち、仏法者は、どこまでも道理に従い、自分の非が明らかになっても絶対に怒らない。
むしろ喜んで真理に服する。

一方、権力者は、自分の主張を公平に吟味されることを嫌い、対等の対話そのものを拒否する。
そして相手が自分の主張に従わなければ、一方的に「処罰」する。

「だれが本当の仏法者なのか」「だれが権力者なのか」。
それを明快に見分ける基準がここにある。

そして、権力者であるミリンダ王に対してまで、僧ナーガセーナは「対論の時には権力者の立場を捨てていただきた
い」と言った。

いわんや仏法者が「王者の論」「権力者の論」を用いては、もはや仏法者ではない。

真の仏法者とは、真理のため、法のために喜んで「解明」に努める。
「批判」「修正」に対して公正であり寛大である。
心を開いて対話する。

反対に、みずからの非を認め、改めるのをいやがるのは「権力者」の特徴である。

日蓮大聖人の御生涯も、一つの次元からいえば、「賢者の論」による「王者の論」との戦いであられた。

大聖人は、「公場対決」――つまり開かれた公正な対論を求められたが、権力者と良観ら悪侶は、「処罰」と「策
謀」だけで応えた。

大聖人は、ただ「経文」を根本とされた。
それが「正義」である。
大聖人は「正義」をもって、「権力」と戦われたのである。

【「四・二」記念大田、品川、目黒、川崎合同幹部会 平成三年三月二十七日(全集七十六巻)】