2014年11月9日 【日蓮大聖人の精神】池田先生指導 投稿者:河内平野 投稿日:2014年11月 9日(日)15時51分40秒 チャップリンが、自分の子どもに語った言葉がある。 「もし、いいと思ったら、どうやろうかなどとけっして心配するな、ねえ、チャールス(子息の名)、つまり直感だ よ」 あれこれ考え、迷っている間に、思いきってやってみることだ。 まず行動だよ。そうすれば知恵は、いくらでもわいてんるものさ、と。 決して《無謀》を勧めているわけではない。 何事も、緻密な作戦、計画が必要なことはいうまでもない。 そのうえで、やるべきことが決まったら、あとは、躊躇せず、ともかく動いてみることだ。 知恵はあとからついてくる――これも一つの重要な真理である。 戸田先生も、同様のことを、よく教えられていた。 この「まず動いてみろ」も、《人生と奮闘し続けた母》の背中から、チャップリンが学んだことだったかもしれない 。 さて、チャップリンの話ばかりだと、ほかに知らないように思われてしまう。 ここで根本である御書を拝したい。 仏法の眼で見れば、自分より上位の者に責められる、迫害されることが「法華経の行者」の証明である。 日蓮大聖人はこう仰せである。 「上のせめさせ給うにこそ法華経を信じたる色もあらわれ候へ、月はかけてみち・しをはひてみつる事疑なし此れ も罰あり必ず徳あるべし・なにしにか・なげかん」(御書九五〇頁) ――権力者である「上」が(大聖人を)責められるからこそ、 (大聖人が)法華経を信じていること(法華経の行者であること)がはっきりと目に見えてわかるのである。 月は欠けては満ち、潮は引いては満ちることは疑いない。 今、私(大聖人)も竜の口の法難・佐渡流罪という罰(不利益)をこうむった。 ゆえに今度は必ず徳(利益)があるでしょう。何を嘆くことがありましょうか――。 文永八年(一二七一年)九月十四日、佐渡に御流罪になられる直前、大聖人は、相模(現在の神奈川県)の依智におら れた。 そこから在家の門下・富木常忍を励まされたお手紙である。 いうまでもなく、御文の「上」とは、直接的には当時の幕府権力をさしている。 そのうえで、もともと、この言葉は、広い意味での「高位の人」「権力者」を意味する。 今でも「お上」といえば、周囲に有無を言わせぬ権力の姿をさす。 「上」、すなわち、地位においても、権威・権力においても、 自分より上位の存在に迫害されることによって、法華経を正しく行じている一つの証明となるのである。 事実、大聖人の御生涯は、幕府から、また良観など大きな権威をもった僧からの迫害の連続であられた。 当時、大聖人には、社会的には何の特別な権威も、また地位もなかった。 自分より「下」の者にいろいろと批判されるのは、「法華経の行者」の証明とはならない。 「上」の人から弾圧されて、初めて本物なのである。 私どもは、このことの重大な意義を、深く拝してまいりたい。 また、大聖人は、月が欠ければ次は必ず満ちるように、潮が引けば次は必ず満ちるように、 この大悪の後には、必ず大善、大利益がありますよ、と。 御自身が大難のさなかにあられるにもかかわらず、むしろ門下を激励しておられる。 「なにしにか・なげかん」――何を嘆く必要があろうか、むしろ喜んでいるのだ、と。 このお言葉に、門下はどれほど安心したことであろうか。 苦しいときほど、民衆に「希望」を与える。「確信」を与える。 その広大な大慈悲こそ、大聖人の本来の御精神である。 【第一回中国総会 平成三年三月九日(全集七十六巻)】 Tweet