投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月13日(月)09時58分46秒    通報
今回の宗門の問題について、幾人かの著名な学者の声を紹介したい。
さすがに見識のある方々は、ことの本質を冷静に公正にとらえておられる。
皆さまにも参考になる話であると思うので、本日は、それらの要点を紹介させていただく。

ある教授は、社会学者の立場から、こう述べておられる。
「宗門と学会の諸問題が、両者の対立という形で報道されているようだが、これは正しい見方とはいえない。
世界的な民主化の潮流が押し寄せる九〇年代にあって、むしろ、避けては通れない《関門》ととらえるべきであろう。
いわば、九〇年代という歴史的転換点において、宗教の本来あるべき姿が問われているのである。
そこでは、教団運営の民主化、国際化時代での布教のあり方、ボーダーレス(国境なき)時代での宗教の普遍性等々がクローズアップされる。
これは健全なことである。
学会は、日蓮(大聖人)の古典的価値体系を、現代に普遍化するという重要な歴史的役割を果たしてきた。
一方、宗門は、伝統的価値にしがみつくことによって、何とか存続してきた。その差は歴然である」

「ソ連、東欧をはじめとする劇的な変化の底流には、民主化への、大衆の飽くなき欲求があった。
結果として、その精神的パワーが、ベルリンの壁の崩壊へ、ソ連のクーデターに対する民衆の勝利へという流れを形成していった。
つまり、そうした力が、地球的規模での『情報化』と相まって、社会主義圏にも『自由化』の芽をはぐくみ、急速に『民主化』の流れをつくったといえる」

「ここで見落としてならないのは、一連の民主化への流れが、じつは『聖』と『俗』との関係性の根本的な見直しという哲学的課題を背負っているということである。
本来、人間性の解放を目的とするマルクス主義は、時とともに人間性から離れ、人々を権威で支配するための教条的イデオロギーと化した。
これが《擬似宗教》としてのマルクス主義の登場である。
この《擬似宗教》、つまり共産主義のイデオロギーのもとでは、権力者たちが《聖職者層》に、一般国民が《在家の信者》にあたる。
その関係は、《聖職者》が《在家》を権力で支配し、服従を強いるというものである。
この、権力者の腐敗、硬直した体質に対して、国民の憤懣が募らないはずがない。
そのエネルギーが『民主化』の旗もとに結集し、劇的な変化をもたらしたといえる。
腐敗した権力者(聖職者層)が暴走し、国民(在家)を切り捨てれば、どうなるか。
それはむしろ、《聖職者》が、《在家》から切り離されたのであり、その時点で、共産党は存在意義を失うしかない。
クーデター失敗の本質もここにある。
ゴルバチョフ大統領を幽閉したクーデター事件と、宗門による総講頭罷免等のやり方は、その構造において酷似している」

「組織には、発展に向かうか収束状態になるかの《分岐点》がある。
それを乗り越え、土台とし、さらに発展するためのキーワードは何か。
それは『人間主義』である。
《すべては人間のため》《あらゆるものは人間による》という哲学を貫徹するところに『人間宗教』の復興(ルネサンス)がある。
学会の明年のテーマ『創価ルネサンス』も、その信念の叫びであると受けとめたい」

「自己革新能力を失った教団は、社会から見捨てられ、いやおうなしに崩壊の道をたどる。
宗門問題は、学会が『創造力』『開発力』『自己革新能力』など、次代を担う力をもった教団であることを証明している。
これまでどおり、『宗教と社会の開かれた関係』を追求し続けていただきたい。
そう宣言し実行することが最善の道であると信ずる」

【第二東京記念文化音楽祭・総会 平成三年十一月四日(全集七十九巻)】