2014年10月13日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年10月13日(月)10時02分14秒 最後に御書を拝したい。 大聖人は、「開目抄」の結論として、次のように述べられている。 「夫れ法華経の宝塔品を拝見するに釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ『令法久住・故来至此』等云々」(御書二三六頁) ――法華経の宝塔品を拝見するのに、釈迦・多宝・十方分身の諸仏が来り集ったのは何のためか。『法をして久しく住せしめんが故に、ここに来至したのである』と、はっきり説かれている――。 法華経の会座に諸仏が集ったのは、妙法を永遠に住せしめるためであるとの仰せである。 「三仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんと・おぼしめす御心の中をすいするに父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛にこそ・みへたるを法然いたはしとも・おもはで末法には法華経の門を堅く閉じて人を入れじとせき狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに法華経を抛させける心こそ無慚に見へ候へ」(同頁) ――このように、三仏(釈迦・多宝・分身の諸仏)が未来に法華経を弘めて、未来の一切の仏子(一切衆生)にあたえようとお考えになった御心の中を推しはかると、父母がただ一人の子どもの大苦にあっているのを見るよりも、さらに強盛に衆生のことを心配されている。 それなのに、法然はいたわしいとも思わないで《末法には法華経の門を固く閉じて人を入れまい》とせき止めた。 狂った子どもをたぶらかして、持っている宝を捨てさせるように、法華経を投げ捨てさせてしまった心こそ、あまりにも恥知らずなことである――。 本来、全民衆に平等にそそがれた仏の慈悲に背き、謗法の悪侶は法華経の門を閉ざしてしまった。 なんと恥知らずであり、残酷であろうかと、厳しく責められている。 「我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし『慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり』等云々」(御書二三七頁) ――わが父母を人が殺そうとするのを知って、父母に告げないでいられようか。 悪子が酔い狂って父母を殺そうとするのを見て、止めないでいられようか。 悪人が寺塔に火を放とうとするのを、止めずにいられようか。 一人の子どもが重病の時に、(いやがるからといって)お灸をすえずにいられようか。 日本の禅や念仏の者を見て破折しない人々は、このようなものである。 「慈悲がなくて詐り親しむのは、すなわち彼の怨である」(章安大師・涅槃経疏)との文のとおりである――と。 禅宗の寺に行って破折もしない――ここには、そんな人はいないと思う。 ともあれ、仏法破壊の者とは断じて戦いぬく。 いつわり親しんではならない。 それでなくては、かえって《敵》となる。 妥協してはならない。 はっきり言ってあげることが、仏法の慈悲にかなう実践であり、相手を守ることになる。 私どもの行動こそ、本来の日蓮大聖人の仏法を守りぬく、真の《外護》なのである。 【第二東京記念文化音楽祭・総会 平成三年十一月四日(全集七十九巻)】 Tweet