投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月 8日(水)18時44分46秒    通報
日興上人の指揮のもと、革新の息吹あふれる弘法の戦いは、人々の共感を広げていく。
やがて熱原の地一帯には多くの同信の友が生まれていった。

そして、弘安元年(一二七八年)、神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟が入信。
熱原の農民信徒からの信頼も厚く、中心的存在となるのにそう時間はかからなかった。

三人の名は、日興上人が、「本尊分与帳」において、在家の弟子分の最初にあげられ、「此三人は越後房下野房の弟子廿人の内なり、弘安元年信じ始め奉る」(富要九巻)と記されている。

なお、「神四郎」という名前であるが、兄が弥藤次入道、弟が弥五郎、弥六郎なら、「神四郎」というより「弥四郎」というのが普通である。

通例では庶民が名前に「神」の字を使うことは考えられない。
日亨上人は、「弘安二年十月十五日の御勘気已後にか・・・・興師(日興上人)に追善供養を営まれた折に、神四郎と賞美(ほめたたえる)の改名を為されたのでは無からうかと思はるゝ」(熱原法難史)との見解を示されている。

すなわち「神四郎」というのは、後にその功績をたたえて日興上人が与えられた名と考えられている。
また、大聖人の門下に、弥四郎という信徒が何人かいて、区別する必要があったのかもしれない。
神四郎兄弟は、入信する前から、地域の人々の信頼を集めていた《庶民のリーダー》だったと考えられる。

また、農民の身分ではあったが、名主(自作地を持つ農民)クラスだったとされている。
日亨上人は、「此三人兄弟は在家の身ながら多少の文武の嗜みもあり従って律義に強胆で士分も恥しき程の大丈夫であったので、此が後に大難に丁りて寸毫も権威に屈せぬ法華魂を作ったのである」(同前)と述べておられる。

「地涌の義」といわれるが、時が来れば、民衆のなかから、地域や社会に深く根を下ろした人材が出現する。
使命を自覚し、広布を推進していく。
これは、不思議というしかない。

【関西最高協議会 平成三年十月十七日(全集七十九巻)】