投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月 8日(水)18時40分1秒    通報
僧侶は、本来、民衆を救うために、正法へ導き、成仏への道を教え、信仰を励ますなど、信徒の幸福に尽くすのがその使命のはずである。
僧侶の権威をかざして信徒を抑圧し、従属を強いて、信徒に奉仕させるというのは、本末転倒である。
そのような者は、もはや仏弟子ではなく、僧侶ともいえないであろう。

弘安二年十月、日興上人が幕府へ提出された「滝泉寺申状」には、滝泉寺の院主代・行智の悪行の数々が暴かれている。
すなわち、
法華経をばらして柿紙(渋紙)に作り(張り合わせて柿紙を塗り、敷物や包み紙などにした)、堂舎の修理に使った。
寺の財産を私用にした。
賄賂をとって無知悪才の盗人を供僧にとりたてた。
寺内の農民を使って鶉狩り、狸狩り、鹿狩りなどをして、住職の坊でその獲物を食べた。
寺内の池(殺生を禁じた池)に毒を流して鯉や鮒を殺して村で売った、等々――。

とうてい僧侶とは思えない醜行ばかりである。
「見聞の人・耳目を驚かさざるは莫し仏法破壊の基悲んで余り有り」(御書八五三頁)
――その悪行を見聞きした人は、目や耳を疑い、驚かない者はなく、仏法破壊のもとであり、どれほど悲しんでもたりないほどである――と日興上人は嘆かれている。

外敵によってではなく、悪侶による悪行によって、仏法は破壊されるのである。

悪侶が実権を握った場合には、寺が荒廃し、他の善良な僧や信徒の心が離れていくのは当然であろう。
そこへ、日興上人が、末法の正法を掲げ、腐敗の根源である邪義を破り、「改革」を訴えられたのだから、保身の僧は驚き、恐れ、一方、心ある僧侶は正義に目覚めていった。

下野房日秀らは、法華経を読誦し、唱題に励み、折伏を実践するとともに、腐敗した滝泉寺の改革を強く要求した。
しかし、悪人に共通するのは、詭弁を弄して自己正当化するのが巧みで、他人や環境に責任を転嫁し、少しも恥じないことである。

そして、自己の非が批判されると、逆恨みして、反対に相手を激しく非難し、攻撃する――。
今回の「宗門問題」の発端の一つも、目に余るぜいたくな行為などの僧侶の非行が指摘されたことに対して、激しく反発した宗門が、《信徒のくせに僧侶を批判するとは生意気な》と逆恨みし、感情的に学会を攻撃してきた点にある。

【関西最高協議会 平成三年十月十七日(全集七十九巻)】