投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月 8日(水)18時39分2秒    通報
駿河の国は執権・北条時宗が守護であり、とくに富士の下方庄は、時宗の母で、時頼の後家尼の所領であった。
そのため、下方庄には、北条家の政所(所領の管理をつかさどる役所)があり、住民を支配していた。

滝泉寺の院主は不在で、院主代(住職代理)の平左近入道行智が実権を握っていた。
行智について、日亨上人は次のように述べられている。

「当時の滝泉寺には院主はあったが親しく寺務を取る事出来ぬ事情であった、其所で北条家の庶流(本家から分かれた一族)で此の辺土に漂泊して居た平左近入道行智と云ふ生道心(にわか坊主)の痴漢(愚か者)が鎌倉(幕府)に運動して一時の預り手となり院主代として専ら寺務を取扱うて居たが、学問が有る訳でなく修行が積んでるのでも人徳が高い訳でもない、執権家を笠に被て威張り散らして居た」(熱原法難史)と。

行智は「左近入道」というから在家の僧にすぎない。
資格がないばかりか、学問も信仰心も人徳もないのに、滝泉寺という大寺の院主代になれたというのも、住民ににらみがきく北条一族の出身だったからである。

そしてその権威をカサに威張りちらし、政所の住民支配を側面から手助けしていた。
信仰を失った宗教が、権力と結託して、民衆を抑圧し、支配する道具となった事例は、古今の歴史にこと欠かない。

【関西最高協議会 平成三年十月十七日(全集七十九巻)】