投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月 8日(水)18時38分2秒    通報
法難の発端となったのは、日興上人の指揮によって富士地方への折伏・弘法が拡大したことによる。
もともと富士地方は、日興上人にとって縁の深い地である。

幼少時を過ごされたのは、母方の由比入道の屋敷があった河合(現・富士群芝川町)。
修学されたのは、蒲原庄(現・庵原郡富士川町)の天台宗寺院・四十九院であった。
また、須津庄(現・富士市)の東光寺の美作阿闍梨に外典(儒教等)を、同地の地頭・冷泉中将に歌道や書道を学んでおられる。

正嘉二年(一二五八年)、日蓮大聖人は「立正安国論」の構想を練られるにあたり、岩本(現・富士市)の天台宗寺院・実相寺で一切経の閲覧をされた。

日興上人は、そこで大聖人にお会いし、みずから願って弟子となられた。
この有縁の地に対して、日興上人は早くから正法弘通の手を差しのべられていた。
とくに、文永十一年(一二七四年)五月、大聖人が身延に入られた後、本格的な弘法を開始されている。
祖父の河合の由比入道、日興上人のおばの嫁いでいた賀島(現・富士市)の高橋六郎兵衛入道、南条時光の姉の嫁いでいた重須(現・富士宮市)の石河新兵衛入道などが、日興上人の折伏によって入信している。

また、それまでに、日興上人によって四十九院、実相寺の僧侶の中にも、正法を信じ、大聖人の門下になる者が数多く生まれていた。

さらに、下方庄熱原郷の南部の市庭寺の地に、天台宗の滝泉寺という大寺があり、そこの住僧の少輔房が、由比家と縁があった関係から日興上人の折伏を受けて入信すると、相次いで下野房、越後房、三河房などが正法に帰依していった。

【関西最高協議会 平成三年十月十七日(全集七十九巻)】