2014年10月16日 投稿者:イササカ先生 投稿日:2014年10月16日(木)17時30分53秒 ではなぜA谷元会長は、H社(葬儀屋)が嫌いなのでしょう。 それは、H社(葬儀屋)が勝手に政治的な動きをしているからです。 「天鼓」が出る直前の平成十年秋、 聖教新聞に勤めていた「T岡(現男子部長の父)」が、聖教を退職して、 H社(葬儀屋)の常務取締役営業本部長になっていますが、彼は聖教の広告局に勤めながら、 自由連合・医療法人「徳州会」の理事になっていました。 また、どこかで市長選があると、学会票をちらつかせながら、 近付いてカネを引っ張ってくるというような事もしていました。 T岡は、衆議院選挙(平成十二・六月)、参議院選挙(平成十三・七月)を 豊島区の副区長でありながら、ハム党は支援せず、 自由連合の広報宣伝部長として活動していました。 A谷元会長は、このような理由からH社(葬儀屋)を毛嫌いしていたのだと思います。 また、「天鼓」のA見副会長追い落としは、実は、政治路線の対立でもあったのです。 小選挙区制度導入、一・一新進党路線を推し進めたのは、 「A谷元会長・N崎・A見・N上」ラインであり、 それに対して、「T川・S籐・H社(葬儀屋)」ラインは、K崎T法らと共に、 自自公を志向していたわけです。 A見追い落としの「天鼓」が再開された平成十一年七月は、ハム党が第二次小渕内閣で入閣し、 自自公路線が完成する直前の時期でした。 その自自公路線の完成は、同時に「T川・S籐・H社(葬儀屋)」ラインの勝利を意味していました。 まさにH社(葬儀屋)は、次期会長・理事長(T川・S籐)を握っているという絶頂感。 政界では一番の実力者「N中」を握っているという絶頂感でした。 Tweet