2014年10月16日 投稿者:イササカ先生 投稿日:2014年10月16日(木)17時29分25秒 そこでH社(葬儀屋)は、勝ち馬に乗るために「反A谷」という利害が一致した T川・S籐を接待漬けにし、彼等にカネを流します。 事実、この証言をしたH社(葬儀屋)の社員も、S籐から「不破優を守れ !」 との厳命を受けて、H社(葬儀屋)に就職していました。 これに対して、A谷元会長はA見を守もりました。 総県長会議で公式に「天鼓」を否定したのもそうですし、 平成十一年六月八日には、総務会の決議を経て、A見を創価学会の責任役員に出世させています。 それは、A見が責任役員になったことに、業を煮やして「天鼓(十一号十二号)」を再開したことからもわかります。 その後、聖教新聞紙上を見ると、 平成十一年十二月二十八日付けの最高協議会の出席者にA見の名前を連ねたのが最後でその後、 パッタリ、A見は新聞紙上に出なくなりました。 次にA見が新聞紙上に登場したのは、平成十二年七月十一日付けの本部人事で、 第三東北総合長(A見)の発表でした。 これはおそらく、平成十一年の晩秋ごろ、何か、A見をこれ以上守れない事実が発覚して、 はずされたのだと思います。 それはまた、「天鼓」の内容が事実であったことの裏返しでもあります。 A谷はなぜ、A見をかばいきれなかったのでしょうか。 それは、A谷元会長は、「H社(葬儀屋)の謀略だと見抜けなかった」というよりも、 決定的な証拠がなかったというべきかも知れません。 というのは、当時、こうした仏敵との攻防戦を仕切っていたのはS籐(当時 青年部長)です。 「天鼓」犯人探しの会議で、一番責任あるS籐が、何度も、K林氏(H社社長)に会って確認したけど、 絶対に違うと言い張って、かばっていたため詰め切れなかったのかも知れません。 また、もしくは、A谷は会内のパワーバランスを考えていたのかも知れません。 H社(葬儀屋)のバックは、Y尋副会長です。 Y尋はこれまで、裏の謀略部隊として、汚れた仕事にH社(葬儀屋)を使ってきた関係で、 ちょっとやそっとのことでは、H社(葬儀屋)を切ることはできません。 もしH社(葬儀屋)がベラベラしゃべったら、第二の山友になることは確実です。 Tweet