投稿者:ジョーカー 投稿日:2018年 9月26日(水)21時44分39秒   通報
直弟子と言えば、五老僧も大聖人の直弟子です。大聖人自ら、本弟子として定められているところから見ると、直弟子の中の直弟子と言っても過言ではありません。功績も申し分なく、土牢に入れられるなど、法難にも遭っています。一信徒からしたら、「凄い存在」であったことは想像に難くないでしょう。それにも関わらず凋落し、敗北者の人生を歩んでしまいます。

五老僧凋落の要因は、日蓮大聖人を天台の弟子くらいにしか理解しておらず、御本仏と拝することができなかったこと。法を付属された日興上人を、師匠ではなく同輩程度にしか見れなかったこと。そして、迫害に耐えきれず、謗法を容認していったこと等があげられます。このことから、本弟子といっても、師匠の心がまったくわかっていなかった事実が浮かびあがってきます。

師匠から直弟子中の直弟子である、本弟子認定された人間であっても、このような有様です。本弟子の中でも、師弟不二だったのは日興上人おひとりです。不二でなければ道を違える。自身は不二でなくても、不二の人を見極め、従う勇気をもつこと。立場や功績があればあるほど、このことが出来なくなる。況や、師から直弟子認定されるような人は尚更です。

ここからわかることは、信心の世界において、本部職員であろうと、最高幹部ならびに会長であろうと、何の意味もないということです。師に直接指導を受けようと、近しい存在となろうと、一切関係がない。それどころか、近ければ近い程、わからなくなってしまうものです。それにも関わらず、師から賞讃されること、直弟子認定されたことをもって、師の心がわかった(師弟不二)と思い込み、道を踏み外す。過去の功績に酔い、不惜身命の信心を忘れ去る。ここに第六天の魔王が付け入る隙があります。

力があればあるほど、五老僧化しやすくなります。どれほど注意しても、注意しすぎることはない程の落とし穴です。功績があっても、不惜身命の信心を失えば、たちまち堕落していく。それが厳しき信心の世界と言えるでしょう。大聖人とあったこともない熱原の農民信徒の「不惜身命の信心」の中に、仏法の真髄があるのです。これがわからなくなると、立場や功績で人を見るようになってしまいます。

安全なところに居れば、楽に慣れ、胡坐をかくようになる。人は勇気を出した分だけ成長し、人間力を深めることができる。戦いとは、勇気を出すことであり、保身に走れば、組織主義に毒され、魔に支配されてしまう。ここが恐ろしいのです。いかなる立場であれ、誰もが生涯一会員です。それにもかかわらず、偉くなったと錯覚し、不惜身命の信心の人を軽く見る。そういった自身の生命のなかにある、五老僧との戦いです。

創価三代の中に師弟不二はあります。その間に、誰かを挟む必要はありません。あくまでも、創価三代の師弟不二の魂を中心としていくのが創価学会です。ここにしか、栄えていく道はありません。本当にすごい人とは、勇気を出して戦っている人であり、誰かに勇気を出すことを奨励する人ではありません。自分自身が勇気を出して戦うこと。それこそが不惜身命であり、直弟子の生き方なのです。