投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2018年 2月26日(月)10時31分31秒   通報
仏の説法を聞き、研鑽している人が

「諸行は無常であり、これ生滅の法である」や
「生滅を滅し已(おわ)って寂滅を楽と為す」

という教えを聞いても、よく分からない人がいます。そういう人にとって、

童子の実践の姿(振舞い)自体が、法門の内容を教えたものだったのです。

経典に「譬え」が多く説かれるのも、深遠な哲理を
やさしく教えようとする仏の智慧であり、慈悲の表れです。

鬼神が先に肉を求めてから法を説こうとしたことは、
仏法の悟達とは〝実践(振舞い)の中にある〟ことを示しています。

童子の悟達の高低浅深は別として、人間の行動の中にしか仏法はないのです。

言い換えれば、寓話の根底に流れているものは、

仏法を教える〝師匠〟と、教えを受ける〝弟子〟の、生死を越えた

不二の実践を貫く「師弟の物語」であったということです。

もし、童子が身を捨てて法を求めるという実践がなければ、
いかに優れた法に接しても、決して悟ることはできなかったでしょう。

死身弘法といっても、それを体得した師匠の実践に共鳴し、不二の実践がなければ、

弟子における「死身弘法」も「師弟不二」も成り立たない――。

私たちの実践論でいえば、

自行(唱題行)と化他行(折伏行)の実践なくして、仏法の体得はないということです。

自身を見つめ、自身を律する自行の実践をしないで、
化他行の実践しかしない者は、いつかは必ず慢心に陥り、傲慢になっていくものです。

そういう先輩や後輩を、いままでたくさん見てきました。

今の学会幹部に傲慢な人が多いのは、唱題行という
もっとも重要な実践が欠けているからです。

そもそも仏法理論は、その悟達のうえに、後に体系づけられていったものです。

もちろん、仏法には深い生命論の展開があり、それをおろそかにしてはいけませんが、

仏法の教義は本来、仏の悟りを展開したものであり、悟りは実践によって体得する以外にないのです。

そう考えていくと、

雪山童子の寓話に貫かれている精神は「師弟不二」ということになります。

冒頭にも述べましたが、

仏法はなにも難しいことをいっているのではなく、
幸せな人生、最善の生き方、生命の変革を力強く説いたものです。

それが人間の真実の生き方にかなっているからこそ、深い哲学的な裏付けがあるのです。