投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2018年 2月26日(月)10時32分18秒   通報 編集済
それでは最後に、

師弟不二たらんと自覚する弟子と、たまたま出家した者に対する、
大聖人の厳命ともいえる指導を記して終わりたいと思います。

――どんなことをしてもこの身は空しく山野の土となってしまう。
惜しんでもどうしようもない。どんなに惜しんでも惜しみ遂げることはできない。

人はいくら長く生きたとしても、百年を過ぎることはない。その間のことはただ一睡の夢である。

受けがたい人身を得て、たまたま出家した者でも、仏法を学び、謗法の者を責めないで、
いたずらに遊び戯れて、雑談のみして明かし暮す者は、法師の皮を著た畜生である。

法師という名を借りて、世を渡り、身を養っていても、法師としての意義は何一つない。

法師という名字を盗んだ盗人である。恥ずべきことであり、恐るべきことである。

法華経迹門には
「我身命を愛せず但だ無上の道を惜しむ」とあり、

本門にも
「自ら身命を惜まず」とあり、

涅槃経にも
「身は軽く法は重い、身を死して法を弘めるべきである」と説かれている。

法華経の両門(本迹)も涅槃経も、ともに身命を捨てて法を弘めるべきであると説かれている。

これらの禁(いましめ)に背く重罪は、目には見えないけれども、積もって地獄に堕ちる冥罰は、

譬えば、寒さ熱さは姿形もなく、眼には見えないけれども、

冬には寒さがやってきて草木や人畜を苦しめ、
夏には熱さがやってきて人畜を熱さで悩ませるようなものである。

しかし、在家の身であるあなたは、ただ余念なく、
南無妙法蓮華経と唱えて、僧(法師)をも供養することが肝心なのである。

それも経文通りであるならば、あなたの力に応じて折伏すべきである。
世の中がつらく感じられる時も、今生の苦しみさえこのように悲しいのに、
いわんや来世の苦しみにおいてはそれ以上であると思って、南無妙法蓮華経と唱えなさい。

また、うれしい時でも、今生の悦びは夢の中の夢のごときものであり、
霊山浄土の悦びこそが、まことの悦びであると思い合わせて、また南無妙法蓮華経と唱えなさい。

そして退転することなく修行して、最後臨終の時を待って御覧なさい。――(趣意、一三八六頁)
― おわり ―