投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2018年 2月26日(月)10時30分39秒   通報
さて、この対話の内容から実に様々な教訓が浮かび上がると思います。

たとえば、鬼神というのは恐ろしく、卑しい姿をしている。
しかし、法を求めるのは、外見の荘厳な姿、地位によるのではなく、

いかなる哲学を持つかという中身を知っていかなければならない
との教えも込められているでしょう。

しかし、注意深く読んでいくと、ある疑問に突き当たります。

その疑問とは、

まず鬼神は童子に「人間の温かな肉」を求めた。そして童子は
我が身を鬼神に与えることによって「教えを受ける」ことができた。

仏法を求めるには〝不惜身命の決意〟がなくてはならないのは当然ですが、

なぜ人間の肉が必要だったのか、
またなぜ帝釈は鬼神となって肉を求めたのでしょうか――。

その答えは、残りの半偈に秘められているのではないかと考えます。

鬼神が説いた残りの半偈「生滅を滅し已(おわ)って寂滅を楽と為す」――

つまり、これは現実の世界における生滅の法に執着する心を滅して、
到達する寂滅涅槃(仏界の境地)に無上の安楽がある、という意味です。

あくまでもこの法門は小乗教の思想ですが、現実の人生に起こる
生や滅(死)に目を奪われ、執着するのではなく、その奥にある寂滅の世界を
求めなくてはならないことを教えたものとしては、不変の真理といえます。

だからこの法門を真実に聞き、悟るためには、童子がまず
我が身に執着する生命の傾向性から「脱皮」する必要があった。

そのために、鬼神が必要だったのです。このように考えれば、
鬼神が現れ、童子に肉を求めたことが「答え」でもあったのです。

童子がそれに答えて、身を捨てる決意をした時、残りの半偈を
受ける資格がそなわった――というよりも、すでに童子は悟っていたのです。