投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2018年 2月24日(土)17時41分56秒   通報
簡単にまとめると、

どんなにこの世に執着しても、人間は必ずいつかは死ぬ。
これは誰人たりとも免れることはできないし、人生の真実の姿ともいえます。

童子は世の無常を知り、寂光の世界に行くために仏法を求め、修行の道に入ったということです。

皆さんはどうですか、
何のために信心をしているのですか。
何のために仏道修行に励んでいるのですか。

今世を楽しく過ごすためですか、それとも生死を越えて、

三世永遠の絶対的幸福境涯を体得し、四悪趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)に堕ちないためですか――。

私たちに信心の目的と、仏道修行の意義を明確に教えてくれたのが、日蓮大聖人であり、池田先生です。

大聖人は「臨終只今にありと解(さと)りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人は、
千仏が手を授けてくれ、恐怖せず、悪道に堕ちないようにされる」(趣意一三三七頁)と断言しています。

「臨終只今にありと解(さと)りて」とは、単に〝腹を決める〟ということではありません。

「解りて」とは、事実がその通りであることを前提にし、この生命の真実の姿を見極めるという意味です。

誰もが、まだまだ自分の人生は先があると思っています。
しかし、いつ死がおそってくるかは、だれも知らない。
一瞬の後には死んでいるかもしれないのです。

これが生命の真実の姿です。

そこには、大聖人も、創価三代の師匠も、我ら衆生もまったく差別はないのです。
なぜかというと、生死の二法そのものが妙法蓮華経の姿だからです。

ただ違うのは、絶対に崩れることのない仏界の生死(生も歓喜、死も歓喜)なのか、
迷いの淵に沈む悪趣の生死(迷いの生死)なのかの違いだけです。

かりにまだ二十年、三十年、五十年と寿命のあることが確かであったとしても、永遠からみれば一瞬です。

このように〝臨終只今にあり〟という人生の事実を理解した時、心ある人ならば

〝いま生きて仏法を受持している重み〟を感ぜずにはいられないはずです。

それを思えば、目先の栄華や、今世の名聞名利、また学会組織の迫害などは問題ではありません。

三世永劫の未来のために、死してなお消えることのない福運を積むために、
真実の人生の目的を見つめながら、信心一途に前へ進むしかないと思う。

日蓮仏法における仏道修行の要(かなめ)は「南無妙法蓮華経と唱うる」唱題行の実践に尽きます。

これが信心の究極の姿勢だと考えます。
・・・明日につづく