投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2018年 2月24日(土)17時41分0秒   通報
二つは「老少不定の所」です。

老少不定とは、人の生命の長さ(寿命)は定まっていないという意味で、
老年だから早く死に、若いからあとで死ぬというふうには決まっていないということです。

つまり、死期は誰人も全く予知できないのです。

童子は思います。

「老人が先に死に、若い人がとどまるのであれば、それは順次の道理である。
まだそういう死ならば、悲嘆の中でもなぐさめられることもある。

しかし、老人がとどまり、若者が先立つこともある。

世の中の出来事でなにが〝恨み(うらみ)〟の極みかというと、幼くして親に先立つ子であり
〝嘆き(なげき)〟の極みは、老いて子に先立たれた親の心である」と。

そして、

「このように〝生死無常・老少不定〟のむなしくはかない世の中に住んでいながら、
ただひたすら昼も夜も今生の財産をためることのみを思い、

朝夕、現世の利益だけを求めて生きている。
しかも仏を敬うこともせず、法も信じないで仏道修行もしない。

さりとて智慧もなく、いたずらに明かし暮らしていては、死んで閻魔の前に引き出されたときに、
いったい何を頼りに暗い死出の旅をするのか、

またどうして菩薩の住む寂光土(仏土)にいたることができようか。できはしない。

思うに、迷えばこの世は夢のように実体がない。
覚れば生死無常を越えた永遠の真実を覚知することができる」

と思索は続きました。

こうして童子は思索の末に、実体のない夢のような浮世を捨てて

〝真実の覚りを求めることが第一である〟と結論し、

雪山にこもって、純粋な心で、ひたすら仏法を求めたのです。

以上ここまでが、仏道修行するに至った過程です。