投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2018年 2月24日(土)17時40分12秒   通報
それでは始めに雪山童子(※以下、童子)が、仏法を求めるに至った過程(趣意)を見ていきたいと思います。

童子は、雪山という山で仏道修行をしていましたが、
なぜ仏道修行をしていたのかというと、その理由は二つあります。

一つは「生死は無常」です。

つまり、よくよく世間を見れば、この世は〝生死無常(生死の二法)の道理〟であり、
生まれる者は必ず死ぬというのがすでに決定している。

だから浮世に生きるむなしさは、たとえば、朝露が太陽に照らされて消えるのに似ているし、
風の前の灯が消えるのと何らかわらない。

人は皆、この無常から逃れることはできず、必ず一度は死出の旅におもむく。

死出の旅を思えば、道は暗く、太陽や月や星の光もない。
せめて灯でもと思っても、ともす火すらない。
またこのような暗い道にともなう人もいない。

さらに、娑婆世界にいる時は、親類・兄弟・妻子・友人が集まり、
我が父は慈しみの志が高く、母は悲しみの情が深い。

どんなに仲睦まじい夫婦であっても、死出の旅には一緒に行くことはできず、
安否を気遣う人もなく、たった一人で行くのである――と童子は考えていました。

この生死の問題は、童子だけではなく、誰人も逃れることのできない生死無常であり、人生の真実の姿です。