投稿者:まなこ 投稿日:2017年 8月21日(月)08時25分15秒   通報
第三章 政治体制の選択
1 指導者の条件

【池田】 現代の世界は、第二次世界大戦時代に活躍した英雄や指導者が相次いで逝き、中国の毛沢東やユーゴのチトーなど少数の例を除けば、その個人的魅力や思想によって世界的に大きな影響を与える指導者が、きわめて少なくなったといえましょう。
これが良いことか悪いことかは、ただちに断定できません。一人の人間に絶大な声望と権力が集中し、そうしたカリスマ的指導者の判断で国家や世界が揺れ動くという事態が解消されることは、ある意味では前進であるといえましょう。さらに、社会が民主的メカニズムの軌道に乗り、そうしたスケールの大きい指導者に依存する必要がなくなったというのであれば、それはむしろ好ましい現象だと思います。
しかし一方、民主主義社会の現状を考えるとき、はたしてそこに人類社会をリードできる指導性というものがまったくなくてよいかというと、これはまた別問題ですね。

【トインビー】 私は、カリスマ的な独裁指導者が、もうこれ以上現われないとはいいきれない、と思います。もちろん、できるだけ多くの市民が最大限に参加できる立憲政体こそ、われわれがめざすべき政治的目標ではありますが、今日の世界があまりにも抜本的な政治的・社会的変革を、しかもきわめて緊急に必要としていることから、これを立憲的なやり方で達成することがはたして可能かどうか、私には疑わしいのです。
私は、個人的リーダーシップは、いかなる性格の集団的事業にも必要とされるものだと思います。これは、可能なかぎり最も民主的な線に沿って組織された事業についても、あてはまることです。民主的な事業や組織・制度でのリーダーシップというものは、カリスマ的独裁指導よりも微妙で、困難な仕事です。後者の型の指導者は、被統治民に対して、あるいは圧力をかけ、あるいは反理性的な感情をかきたてることによって、彼らを服従させるものです。これに対して、民主的政体にあっては、指導者は自分の提唱する政策の正しさを、市民に合理的に納得させることによって彼らの協力を得なければならず、しかもこの理性的な対話は冷静な感情をもって行なわなければなりません。

【池田】 その違いは非常に大事ですね。たしかにおっしゃる通り、民主的リーダーシップとは、困難で微妙なものです。民主的な指導者は、民主主義があくまで社会運営の制度と機構のあり方を規定するものであることを、常に念頭において行動していかなければなりません。これらの制度や機構は、当然、民主主義のルールに従ってつくられていなければならず、またそれらが運営されていく背景には、民主主義の理念が確立されていなければなりません。ところが、人間の心には、自己の権力を安定させ、より拡大しようとする欲望があります。そのため権力者は、自分がその上にのっているところの制度や機構そのものを、人々に絶対視させることを望みます。そうなると、本来の基盤である、理念としての民主主義が見失われるという傾向があります。
現在、世界は決して平和で安定しているとはいえません。世界が抱える諸問題を解決していくには、優れた英知と高遭な理念に裏づけられたリーダーシップが要求されるでしょう。民主主義社会においては、指導者の出現というと、とかく反感がもたれやすいものですが、これは感情的に扱われるべき問題ではなく、あくまでも彼がそうした指導理念をもっているかどうか、その指導理念はどこまで実効性があるか、という面から判断されなければならないと思います。そうした判断が、民衆にとって、カリスマ的指導者の独裁を防ぐ大事なポイントになると考えます。

【トインビー】 一つの民主的政体が満足に機能するためには、策謀家でも煽動家でもない指導者、つまり国民が抑圧されたり、感情を煽られたりすることなくその指導に従えるような、明らかな倫理的・知的長所をそなえた人物が必要とされます。そのような指導者となると、なかなか見いだすことがむずかしく、またたとえ見いだされても、本人としては、自国民を導いていくという困難で感謝されない仕事を、あまり引き受けたがらないかもしれません。指導者の担う役割は、明らかに最大級の社会的意義をもつものです。しかし、利他的な理由からこれを請け負うとなると、そこには非常に高度の公共的精神と無私の献身とが要求されるわけです。
現代の民主的指導者たちのうち、その困難な役割を満足に果たすことに最も近づいたのは、私の判断ではF・D・ルーズベルト、チャーチル、それにネルーです。もっとも、ルーズベルトも――またネルーですらも―一その選挙民との関係において、完全に公明正大だったとはいえません。そのうえ、この三人には、ともに危機にさいして職務を担当したという有利さがありました。危機に臨んでは、民主国家の国民といえども、廿んじて苦難に耐え、犠牲を払う気になるからです。