投稿者:まなこ 投稿日:2017年 8月18日(金)08時22分2秒   通報
【池田】 人類は余剰生産物の大部分を戦争に費やしてきた、と博士はいわれましたが、まさにそれ以上であるといえましょう。
戦争では、多くの家屋や農地が荒らされ、破壊されて、民衆は日々の生活必需品さえも奪われます。日本では、戦闘階級としての武士が、中世以来、社会の上層に位置し、農民や商人を搾取してきました。現代の日本でも、自衛隊を増強し、維持するために、国民の生活は大幅な犠牲を強いられています。必要最小限と思われる福祉制度さえ完備せず、都市に住む勤労者は住むべき家さえもてません。福祉や住宅建設に費やされる予算は、防衛費の巨大さに比べれば、問題にならないほど少額です。
しかし、これはひとり日本だけの問題ではないでしょう。おそらく、軍備をもっている世界のあらゆる国が、こうしたディレンマに直面していることと思います。

【トインビー】 まさに各国がそうした状況にあります。しかしここでは、戦争ははたして人間の本性につきまとう宿命の一部なのかという、冒頭に提示された問題に立ち戻りたいと思います。これについては、私は、さきに述べたような歴史上の理由から、そうではないと考えるのです。
暴力性や残酷性については、たしかに人間性に生来そなわるものだと思います。さきほどの御指摘のように、生物学者の説によれば、地球上のあらゆる生物のうち、人間だけが同種の仲間と死ぬまで戦いぬく生物種として知られています。他種の動物は、オス同士がメスをめぐって戦っても、やがて一方が屈服すれば、勝ったほうは相手の命を奪うことまではしません。ところが、われわれの祖先が人類になって以来というもの、人類はあえて殺人をも辞さない暴力的罪悪を、これまで繰り返し犯してきたものと考えられるのです。ただし、この人間の暴虐性が、常に時と所を選ばず、戦争という形をとってあらわれたかというと、有史五千年間だけをとってみても、必ずしもそうとはいえません。
たとえば、日本では西暦十二世紀までの五百年間以上――辺境のアイヌ征伐戦を除けば――内戦らしい内戦はなかったようです。しかし、その後の四百年余の間、日本は内戦に悩まされ続けました。ところが、十七世紀初期から十九世紀中頃にかけては、再び徳川幕府体制のもとで、内外ともに平和が保たれています。そして、一九四五年以降は、戦争を放棄しています。
ノルウェー国民は、一八一四年から一九四〇年にかけては、一度も戦争をしていません。しかし、ノルウェー人といえば、かつてのバイキング時代には、世界有数の好戦的民族でした。したがって、第二次世界大戦で攻撃され、侵略されるや、彼らは果敢に戦ったわけです。
こうした、日本とノルウェーの歴史において、戦争がなかった時代にも、やはり個人的な殺人とか、公的な処刑とかは行なわれていました。このことは、戦争を、それ以外の殺し合いや暴力行為から区別しなければならないことを示しています。

【池田】 その通りです。死刑の問題は別として、殺人は個人的な動機からなされるものです。もちろん、ある特殊な集団の掟によって行なわれる非個人的な例もあるでしょうが、そうした集団に入ること自体、個人的な動機によるものですから、一般的に、殺人は個人的動機による行為といってよいと思います。これは、いかなる国においても、法律によって厳しく禁じられていることであり、そうした行為に対しては、厳格な制裁が加えられます。
これに対し、戦争を行なう主体は、個人的動機による殺人を厳禁しているはずの国家であり、しかも、こうした国家の犯罪行為に対して制裁を加える制度は確立されていません。そのため、勝利を収めたほうが正義であるというような、野蛮きわまる法がいまだに通用しています。これは、まったく大きな矛盾です。誰が考えてもとうてい納得できないこんな不合理を、人類は何千年にもわたって黙認してきたわけです。
国家と国家の間においては、戦争ないしそれに準ずる事態が、正常であるかのような観を呈してきました。常に軍備をととのえ、隣国に対して、互いに刃を向け合ってきました。私は、平和が、そうした戦争の合間の休止期であっては、断じてならないと思います。 平和であるとは、互いに何の恐怖も与え合うことなく、心から信頼し合い、愛し合っていける状態のことです。そのような平和な状態こそ人類社会の正常な状態であり、それであって初めて人間らしい人間社会といえるでしょう。そのような社会にすることこそ、人類の政治的指導者の、思想家の、そしてあらゆる知識人たちの、最大の課題であると訴えたいのです。

【トインビー】 戦争を廃絶させることは可能なはずです。たとえすべての人間について、戦争以外の暴力的犯行を根治することが不可能であったとした場合でも、これは可能なはずです。五千年にもわたる一つの慣習を捨て去るのはたしかに困難なことですが、にもかかわらず、私は核兵器の発明が、戦争廃絶に成功する蓋然性を、われわれにもたらしていると思うのです。
戦争という制度の底流には、交戦国のうちいずれか一方が勝ち、他方が負けるはずだ、そして戦勝国が勝利によって得る利益は出費よりも大きいはずだ、という想定がありました。しかし、このもくろみは、しばしば裏目に出ています。戦争は、勝利者側にもしばしば破滅をもたらしたのです。ところが、核戦争となると、ここにはもはや高価につく勝利といったものさえ存在しないことが明らかです。このような見通しは、各国から、戦争を起こす合理的動機を奪い去ってしまいます。
しかしまた、人間の本性のなかで、理性はそのほんの一部しか占めていません。われわれが、理性に反して集団自殺を犯してしまうことは、十分考えられるのです。戦争という制度は、それに代わる新しい制度、すなわち世界政府という制度によって置き換えられないかぎり、廃絶することはできません。戦争は、たとえ核時代にあってもなお、現在の地方国家百四十か国が単一の世界的機関に従属しないかぎり、その可能性をもち続けることでしょう。この世界的機関は、平和維持のため、最強の地方国家をも服従させる、有効な力を備えるべきなのです。