投稿者:まなこ 投稿日:2017年 7月16日(日)08時23分17秒   通報
【トインビー】 イギリスで自殺が反対され、屈辱的で残酷なまでに自殺が困難であることには、たしかにそれなりの歴史的な根拠があります。
キリスト教の教義によれば、自殺者は神に対して罪を犯していることになります。なぜなら、神のみが人間の死の瞬間を定める権限をもつとされているにもかかわらず、その人はこの神の特権を侵すことになるからです。 私自身は、人間の姿をした神の存在というものを信じておりません。また仮にそのような神の存在を信じたとしても、神が人間事象の領域でとくに手中に握っておこうとする特権は何なのか、知るすべはまったくないでしょう。しかしながら、神の存在を信ずる立場から推測すれば、神が定めた仮説的な掟は、互いに矛盾し合わないはずだと考えなければならないでしょう。そういう考えからすれば、私は、もし神が人間に自殺を禁ずるのであれば、まして他人を殺すことは禁ずるはずだと推定せざるをえないのです。それが殺人であろうと戦争であろうと、犯罪者の死刑であろうと、変わりはないはずです。これを裏返せば、神はまた、医療や看護なども禁ずるはずだと推測しなければなりません。もし神のみが人間の寿命の決定権をもつというのが真実ならば、そのような人間の行為によって寿命を延ばすことは、人為的に寿命を縮めることと同じく、神への冒漬になるはずだからです。

【池田】 そのような概念に比べると、仏教の考え方はまったく異なっています。仏教では、神性が認められるのは大宇宙の生命力それ自体であり、神人同形の神の力というものは考えません。したがって、生命の尊厳を保つために人間の生命を断つことは“悪”になりますが、寿命を少しでも延ばすために努力することは、他人の犠牲をともなわないかぎり“善”でこそあれ、悪にはなりません。
ただキリスト教についても、私はこれまで、多くのキリスト教徒の考えは、寿命を縮めるのは責められるべき行為としながらも、寿命を延ばすことについては誤りと考えていない、という認識をもっていました。この点、どうお考えになりますか。

【トインビー】 おっしゃる通りです。多くの場合、キリスト教徒の実践は、その教義と一致していないのです。
たとえば、自殺によって死んだ人は、教会に隣接する“聖なる地”への埋葬は許されません。
ところが、敵兵を殺そうとして逆に殺された兵士は、キリスト教の儀式によって埋葬され、その名誉をたたえてたぶん記念碑が建てられるでしょう。また、キリスト教徒は医療を尊重しています。ただし、そのなかで特異な存在はクリスチャン・サイエンスで、その信者たちは医療を受けることを禁じられています。
私自身、キリスト教徒として育てられましたが、学校では、キリスト教以前のギリシア・ローマの文学、歴史の教育を受けました。したがって、私は先祖伝来のキリスト教よりも、この非キリスト教的な教育のほうから大きな影響を受けているのです。
キリスト教以前のギリシア人、ローマ人は、自殺をタブー視してはいませんでした。むしろ彼らは、自殺の自由を基本的人権の一つと考えていました。また、個人が人間としての尊厳を守るためには、それに値する行為として、自殺するしかない場合もあると考えていたのです。このため、そうした場合に自殺をした人々は、非常な尊敬を受けました。
たとえば、ギリシアの哲学者デモクリトスは、その知的な業績によって――物質の構造についての原子論の父として――尊敬されただけでなく、自分の知力の衰えを知るやそれ以上長生きするのを拒否したことでも尊敬されました。デモクリトスは、わざと断食して自殺したといわれています。彼を生き続けさせようとして無理やり食べさせるようなことは、誰もしなかったのです。
また、ジュリアス・シーザーの政敵の一人であったカトーは、軍事力によって施かれたシーザーの非立憲的・独裁的支配に屈するのを嫌い、自殺の道を選びました。カトーはそれまで非現実的な人物で、政治家としての成功は収めていませんでした。ところが、自らの人間の尊厳を守るべく自殺したために栄光を勝ち取り、そのおかげで、彼は死後一世紀半にわたり、シーザーの樹立した独裁体制のローマ帝政にとって、最も恐るべき敵となったのです。
このように、キリスト教以前のギリシア人やローマ人は人間の尊厳を維持するための自殺を認めていたわけですが、私も含めて現代の西洋人の多くは、それがまたインドや東アジアにおける、昔も今も変わらない自殺に対する態度であったと想像しています。私はかつて、帝政中国では、時の皇帝に仕える御史が諌言の義務を感じた場合、彼は同時に、その義務を果たした後に自殺をする義務も感じていた、という記述を読んだことがあります。また、日本では四十七士がたたえられているようですし、アメリカ軍占領下の南ベトナムでは、焼身自殺をした南伝仏教の僧侶たちも、死後において、さきに述べたカトーと同じような影響を与えたのではないかと思います。こうした私の所感は、認識不足の誤ったものでしょうか。

【池田】 博士のおっしゃる通り、たしかに中国や日本などでも、自殺は古くから行なわれていました。また、その自殺が人々に大きい影響を与えたという例も少なくありません。とくに日本の武士道では、自殺は一種の美徳として礼賛されたほどです。現行の日本の刑法でも、自殺関与の罪は規定されていますが、自殺や自殺未遂そのものは犯罪とみなされていません。また、安楽死の実例もかなりあったかもしれません。近代日本の文豪で同時に医者でもあった森鴎外は、安楽死の手助けをしたために罪に問われた人物を取り上げた小説を書いています。
また、焼身自殺をしたベトナム僧の場合を考えてみますと、自殺による抗議という政治的動機があったとはいえ、思想的背景としては、彼らの実践する南伝仏教のなかに、肉体を不浄なものとする見方があったといえるでしょう。
北伝仏教では、あらゆる人間の生命は尊極なる至宝――すなわち、仏界あるいは仏性――を内包した宝器であると説いています。生命は、いかなる等価物ももたないという意味でも尊厳ですが、そればかりではありません。生命には仏界が潜在しているがゆえに尊厳なのです。仏界とは、宇宙と生命の究極の実相を究めた知恵、および宇宙生命と自己の生命の一体性を覚知したところから湧きいずる無限の生命力をそなえた実在であり、真実の幸福を築く源泉となるものです。
結局、北伝仏教の教義のなかには、自殺や安楽死を直接禁じている言葉は見当たらないにしても、それは許してはいないと考えられます。
仏教の経典には、自殺や安楽死についての明確な教えはないようです。したがって、それらを認めるかどうかは、仏教の道理のうえから類推的に考える以外にないわけです。その場合、仏教は、過去・現在・未来の三世にわたる生命の連続を前提とし、それにしたがって人間のもつ宿業もまた持続していくものと考えます。苦しみは死によって終わるのではなく、苦しみの業として死後も続いていくとするのです。この業そのものは、その人自身の力で転換する以外にありません。このように考えれば、仏教には、安楽死を正当化する根拠は何もありません。また、自殺についても、生命は宝器であるという理由から、認めることはできません。
ただし、もとより生命が連続するかどうかということ自体、客観的に証明することができませんから、それを前提とした、安楽死や自殺をどう考えるかということも、一つの“信念”の問題になります。しかし、人間生命が尊極で、かけがえのないものと考える以上、私は、故意に生命を縮めることは許されないと信ずるのです。

【トインビー】 中国人や日本人と同じく、ギリシア人やローマ人たちも、自殺や安楽死を認めていました。自虐的な割腹の後、ただちに慈悲の介錯が行なわれる切腹では、自殺と安楽死が結合しています。あなたは、こうした東アジア的姿勢と、キリスト教以前の西ユーラシア的姿勢が、キリスト教の教理に反するとともに、仏教の教理にも相容れないと主張されました。
私の場合、キリスト教的な教育よりも、ギリシア的な教育のほうから強い影響を受けています。そのため、どうしても、自殺や安楽死は、人間の基本的かつ不可欠な権利であると感ずるのです。ある人が、他の人々は信じていても、第一の当事者である自分がおそらくは信じていない原則に従わされ、自分の意志に背いて生き長らえさせられるとすれば、私は、それはその人の尊厳が他によって侵害されたことになると思います。同じく、人間は、ある特定の状況にありながら自殺できないとすれば、自らの尊厳を冒涜していることになると考えます。
私たちは、人間の尊厳が至高の人間的価値であるとする点では、意見が一致しました。しかし、人間の尊厳と自殺や安楽死との関係については、どうやら意見が分かれているようです。

【池田】 私は、博士の主張された「人間は自殺する権利をもつ」ということを否定するものではありません。ただし、その「自らの生を終える」ということを決定する主体は、知性や感情ではなく、もっと本源的な、その生命自体であるべきだと思います。
知性、理性、感情は、この生命自体の表面の部分であって、生命全体ではありません。知性や理性、感情は、この全体的生命を守り、そのより崇高な発現のために奉仕すべきものです。それが生命の尊厳を守り、尊厳性を現実化する道であると考えます。
したがって、知性や理性、感情には、全体的生命を破壊したり、その持続を終息させる瞬間を決定する権利はないといわざるをえません。全体的生命のみが、その生の終焉を決定する権利をもつといえましょう。この全体的生命が自らの生に終止符を打つのは、過去からの宿業によるかもしれませんし、あるいは生命の持続を支える肉体の機能の故障によってかもしれません。いずれにしても、それは、知性や感情がかかわりえない、意識下の深層にあるわけです。
知性や理性、感情が、生命のより崇高な発現のために、正義、勇気、慈愛をめざしていくべきであるのは、当然のことです。その理想の追求のために、全体的生命を危険に陥らせることがあったとしても、それは認められなければならないと思います。むしろ、自己保身のために正義を曲げたり、臆病になったり、他の人を犠牲にすることは、その人の生命の尊厳性を傷つけることでしかありません。この点、仏教でも、法の正義を守るため、利他のためには、自らの生命を惜しんではならないと教えています。
博士があげられたカトーの例、あるいは一般的ギリシア・ローマの思想は、正義と勇気を貫くところに、人間の尊厳性を高揚する道があることを示したものであって、その意味でカトーを賛嘆し、そうした思想に共鳴するのは正しいことだと思います。しかし、自殺そのものを賛嘆することは誤りといわざるをえません。カトーは、自殺によってシーザーに精神的ショックを与えることはできましたが、ローマ市民を独裁制から解放することはできませんでした。もし、カトーが自殺ではなく、生きる道を選んで、その一生を抵抗の戦いに捧げていたならば、たとえ自分は敗れたとしても、後世の自由を愛する人々のために、力強い手本となったかもしれません。
なお、博士があげられた、もはや廃人となった人をただ物理的に生かしておくために、高価で技術を要する治療を施すということには、私も反対です。それは、博士が指摘されたように、その技術と費用によって治癒できる、他の病人を見捨てることになるかもしれないからです。さらにまた、自ら生の終息を選ぶ、その生命自体の権利に干渉しているからです。

(二十一世紀への対話 上  完)