投稿者:まなこ 投稿日:2017年 7月15日(土)08時12分56秒   通報
【池田】 安楽死を認めたうえで、それをどのように実施するかという問題になれば、博士の御意見は非常に説得力があると思います。しかし、私としては、たとえ安楽死であっても、物理的、化学的な、外的な力によって死を早めるということには、賛成できません。
ただ、博士がさきほど述べられたように、大脳の働きが破壊され、栄養の摂取さえ自力でできないような重病人でも、最近の医学は生かしておくことができますが、このようないわゆる“植物人間”に対しては、治癒の見込みがないかぎり、生命存続への努力をムダに続ける必要はないと思います。なぜなら、その人はすでに人間としての働きを発揮しえない状態にあるからであり、その意味では“死んでいる”といえるからです。
苦悶をとどめるために他人の死に手を貸したり、あるいは自ら死を選ぶ自由を認めるということも、ヒューマニズムの一つの論理的帰結であることは、私も認めます。しかし、それがエスカレートして、やがては生命軽視の方向へと堕落することを、私は心配するのです。
もし人々が安楽死を当然の権利であると考えるようになれば、たとえば病床に臥して、面倒をみてもらうばかりで、他人のために何の貢献もできない老人は、生きていること自体に罪悪感を感ずるかもしれません。その場合、“慈悲”の心から安楽死を認めたことが、社会全体としては、かえって“無慈悲”を生む結果になりましょう。 私は、苦痛の消滅のために人為を施すことは正しいと思いますし、そのためには最大限の努力を払うべきであると考えます。しかし、生命自体の生きる権利というものに人為を加えることは許してはならないと思います。なぜなら、苦楽には尊厳性はありませんが、生命は尊厳だからです。尊厳が、他に等価物をもたないということであるならば、生命の尊厳は、どんな苦悶とも等価におくことはできないのではないでしょうか。

【トインビー】 しかし、おっしゃるように、明らかにどうにもならない状況のなかで、生命を断ちたいという人間の願望が抑制されなければならないとした場合、そうした抑制は公的なものとすべきでしょうか。
現在、イギリスでは、そのような不幸な状況にあっても、自殺をするとなると、人目をしのんでひそかに行なうしかありません。これは、私には非情なことであり、また人間の尊厳を侵すことであるように思えるのです。仮に私自身が、考え抜いたあげくに自殺を決意し、たとして、その決行のためには他の人々を慎重に欺かなければならないというのであれば、私はきっと非道なことだと感じることでしょう。
私の友人で熟慮のすえ自殺をした人が二人おりますが、彼らのその決心は、彼ら自身にも倫理上正しいと感じられましたし、私にもそのように思えました。そのうちの一人は芸術家で、あるとき発作で倒れたのでした。彼女は、自分が二度と創作活動にたずさわれない身となったことも、また、生きているかぎり看護を受けなければならないことも知っていました。発作が起きる以前、彼女は自ら創作するその芸術作品を通じて、明らかに価値あるものを世に提供していました。ところが発作で倒れてからは、不本意にも、もらうことのみ多く、代わりに与えるものは何もなくなってしまいました。彼女は、これを自分の人間としての尊厳と相容れないと感じ、自分自身にとっても他人にとっても、もはやプラスの価値からマイナスの価値に転じてしまったとしか思えない人生に、自ら終止符を打ったのです。私のもう一人の友人は、作家でした。彼も不治の盲目に突然、襲われてしまったのです。
この二人の友人は、誰にも見つからず妨げられないよう苦心惨憺し、やっとのことで自殺できたのでした。二人はこうして、ともかくも自殺に成功したわけですが、しかし、邪魔されぬよう人目を避ける必要があったということは、彼らの悲劇的状況をさらに悪化させたことになります。ここで私が感じるのは、このような苦境の悪化は、彼らに、どうにも正当化できない、よけいな苦悩を与えたということです。私は、この二人のような場合、自殺は正当な行為であり、それを妨げることは大きな誤りであると考えています。

【池田】 ただいまの、博士の友人のような場合は、まことに同情すべきケースです。 しかし、われわれは、他人の生命と同じく自分自身の生命に対しても、どこまでも畏敬の念を捨ててはならないと思うのです。ここにいう“生命”とは、自己のたんなる才能とか理性とかの狭義のものではなく、それらを一つの部分とする全体的なもののことです。才能の発揮が不可能になったから、もはや生きる意味がないというのは、生命をあまりにも狭く小さい枠に閉じこめた考え方です。さらに、こうした考え方が一般的になった場合、なにか、そうした才能のない人間は生きる価値がない、とでもいった風潮さえ生みかねません。
たしかに、博士のおっしゃる通り、道徳的な問題としては、他人に迷惑をかけながらなお生に執着することは、称賛に値することではないかもしれません。しかし、私は、そうした人間としての最大の不幸ともいうべき状態に陥った人たちが、たとえ熟慮のすえにしろ、死の道を選ぶということには疑問をもたざるをえません。
たとえば、有名な話ですが、あの大作曲家べートーベンにしても、三十二歳のとき耳疾を苦にして自殺の瀬戸際まで追いつめられ、遺書まで書いています。しかし、彼の孤独な苦悩との壮絶な戦いは、その翌年からの猛烈な創作活動によって知ることができます。その夏、彼は『エロイ力』の作曲を進め、その直後に『運命』に着手し、五年後にこれを完成しています。四十八歳のときにはすでに補聴器も役立たなくなり、その前後は親族争いなどのため、彼の創作活動もまさに枯渇したかのような観さえありました。しかし、その後『荘厳ミサ曲』などの名曲を完成し、最後の一年間は病苦と戦いながら、雷雨のなかに、その五十七歳の生涯を閉じています。
私は、この話を偉大な天才の特別な話として片づけるのではなく、そこから人間としての自己の生に対する厳しい態度を学びたいと思ってきました。
たしかに、死によって人生の苦悩に終止符を打とうとする人たちもいます。しかし、死による“自由”を求めて、自分の意志で自分の死を決定し、自ら生命を断つということが、はたして真実の“自由”といえるでしょうか。人生が自分の意志に反する結果となり、不自由な生となったとき、それを乗り越える“自由”もなく、ただ「生きていくべきか、死ぬべきか」の選択の“自由”だけが残されている場合があります。そのときに死を選ぶことは、現実の苦悩から逃避するのと同じであり、結局、自分自身の運命に流されていることにはならないでしょうか。
私がべートーベンを尊敬するのは、彼が自分の過酷な運命と戦いながら、その偉大な人生を切り拓いたからです。その生涯を貫いていた彼の信念は、私は、宗教的信念ともいえるほど強靭なものであったと想像します。しかし、われわれ自身のことを考えれば、誰でもそのような確固たる信念を抱き続けるというわけにはいかないかもしれません。そこに、私は、人生の羅針盤としての宗教の役割があると思うのです。
実際、自殺や安楽死を是とするか非とするかは、その人の広い意味での宗教観――もしくは死生観――によって決まると思います。たとえば、“名”を重んずる儒教の影響が強かった徳川時代の日本においては“恥”の意識が強く、武士の間では恥をそそぐために“切腹”という形の自殺が行なわれました。これに対して、自殺を禁ずるキリスト教が早くから広まったイギリス等においては、恥をそそぐために決闘はしても、自殺をするなどということは考えられなかったと思うのです。
さきほど博士は、現在のイギリスでは人目をしのんで自殺をしなければならないといわれましたが、そういう社会事情にも宗教的な背景があるのではないでしょうか。