投稿者:まなこ 投稿日:2017年 7月 5日(水)23時00分56秒   通報
◆ 6 マスコミの中立性

【池田】 現代は情報産業時代といわれますが、なかでもマスコミは、現代という時代を特徴づけるものであると思います。マスコミは、社会のあらゆる分野にわたって非常に大きな影響力をもっています。電波は瞬時のうちに一国の出来事を全世界に伝えますし、なかでもテレビはありのままの姿を家庭の茶の間に映し出します。

【トインビー】 近代技術は、人間の目と耳に直接訴えるコミュニケーションの手段によって、即座に語りかけられる大衆の数を大幅に増大させました。
昔は、演説者は拡声器をもたず、ましてやラジオで自分の声を放送したり、テレビに姿を映し出すことなどは考えられませんでした。そのため、人体の本来の能力に限界があることから、聴衆の数も、演説者の声が聞こえ、同時に姿も見える範囲内に集まれる数におのずと限られていたものです。ギリシアの哲学者アリストテレスは、この場合の人数を五千人以内と見積もり、したがって、直接民主制の形態をとる国家では、参政権をもつ市民の数は最大限五千人を超えるべきでないと主張していました。これに対して、現代の機械化されたコミュニケーション・メディアは、この装置の利用者が地球上のあらゆる人々に話しかけることを可能にしています。放送者がラジオやテレビのスタジオで同室内の一人の人間に話しかければ、技師が、このたった一人の視聴者を百万倍にも十億倍にも増やしてくれるわけです。
ラジオ放送やテレビ放映は、誰でも瞬時のうちに聴視することができます。これに比べて新聞や書籍は、たとえ空輸したところで配布に時間がかかります。また配布されても、これを利用できるのは字の読める人々だけです。しかも、いくつかの国々――日本、ニュージーランド、ドイツなど――では、人口のほぼ百パーセントが文字を読めますが、世界の総人口の大半はいまだに文盲です。このため、そうした多数の文盲者にも理解でき、しかも即時に伝達される話し言葉や目に見える映像に比べれば、活字化された文字のほうが影響力が小さいのは、どうしても避けられません。これは残念なことです。ラジオから流れてくる言葉――またテレビの画面に現われる映像や言葉――は、ほんの束の間のものにすぎません。それは現われたと思うとすぐに消えてしまい、残るものといえば視聴者の記憶――あてにならないことでよく知られる人間の生来の機能――にとどまるものだけです。

【池田】 そこから生じる弊害の一つとして、絶え間なく流れてくる情報によって、人間は深い思索と考察を怠るようになり、刹那的で衝動的な傾向に陥っていくことが懸念されます。あるいはまた、時代の急速な流れに即応しようとして、受動的な生き方になり、創造的な精神の営みがいよいよおろそかになることも心配されます。
事実、テレビその他の大衆伝達機関の伝える情報量は、すでに過多といってよいほどになっており、日本ではすでに“情報公害”という流行語ができています。もっとも、これはたんに情報量が過多であるというよりも、その質の観点から論ずべき問題かもしれませんが、しかしいずれにせよ、現代人がそうしたおびただしい情報の山に埋まり、自分を見失い、価値判断の基準に迷っていることは確かです。
また逆に、これらマスメディアを用いる側からいえば、その用い方いかんでは、事実の正しい報道という目的よりも、視聴者の心理を操作するために、大きな、しかも恐るべき効果を発揮することが考えられます。たとえそれが意識的な大衆操作とまではいかなくとも、少なくともマスコミによって一つの世論が形成されたり、一定の方向に世論が傾斜することは、十分に考えられることです。

【トインビー】 マスメディァの影響力はまぎれもなく巨大であり、この伝達機関を支配する人々は、それを大衆操作のために用いることができます。
このような大衆操作の力は、なにも視聴者自身の心理の潜在意識層だけの占有物ではありません。マスメディアの運用者は、自分たちの伝えるべき思想を、視聴者の表層心理を貫いて、潜在意識の深層にまで浸透させることができます。彼らはこうして、自分の目的のために、大衆の潜在意識を操作することができるわけです。
数年前、アメリカで起こったことですが、いくつかの民間企業が自社の製品やサービスの宣伝のためにラジオやテレビの時間帯を買い、これらのメディアを大衆の表層心理にではなく、その潜在意識層に訴えるために用いたことがあります。これは、知らず知らずのうちに大衆に商品を買わせるための、彼らの一つの戦術でした。当然のことながら、この策略は猛烈な抗議を浴びたものです。フランスでも、ドゴール大統領時代に、同じく、即時効果のあるマスメディァを政府が独占使用したということで、野党から当然の抗議が寄せられたことがあります。野党側は、これは政府権力の不法行使だと主張したのでした。

【池田】 そこで、マスコミ自体にとって問題になるのは、中立性ということです。これは、きわめてむずかしい問題です。
たとえば、テレビが学生の反政府デモと警官隊の衝突のシーンを放映したとします。その場合、テレビカメラが進撃するデモ隊を映せば、一般の視聴者は、デモ隊の激しい行動に批判の眼を向けるに違いありません。反対に、デモ隊を押し戻そうとする警官隊にカメラを向ければ、武装した警官隊のものものしさに非難の声をあげるでしょう。カメラを何台用意したところで、それは同じことです。画面に現われるのは一定の時間、一定の場面だけであって、公平な条件のもとに、同時に相反する二つの場面を茶の間に送り届けることは、不可能に近いからです。この場合は、厳密にいえば、もはや中立ということは、ほとんどありえないといってもよいでしょう。
とはいえ、その影響性を考えるとき、“中立性”はやはり、あくまでもマスコミに要請される重要な条件の一つといわざるをえません。
そこで“中立性”とはいったい何かということですが、現実の諸問題というのは、足して二で割るようなわけにいかないのが普通ですし、たとえそれが可能であったとしても、それは本当の意味での中立とはいえないと思います。中立性がよく問題にされるのは、政治問題の場合が多いわけですが、政府などの権力側と民衆の側では、もともと力の強弱に差があります。国家権力を握っている以上、政府は民衆に対して圧倒的な力をもっているわけで、両者は対等の関係にはありません。
したがって、マスコミが政府と民衆のちょうど中間点に立ってものをいうならば、それは中立のようであって、じつは真の中立ではないと考えざるをえないでしょう。このように、中立性とはあいまいな概念であり、実体はそれぞれのケースによって違ってくると思うのです。