投稿者:まなこ 投稿日:2017年 7月 4日(火)08時07分24秒   通報
【トインビー】 体制者とそれ以外の人々の間に現在生じている亀裂も、いうなればわれわれのカルマに縛られた運命の一部なのです。われわれ現代人は、文明の夜明けとともに、少なくとも五千年も以前に生じた、この社会的断絶を埋められるだけの宿命転換を、はたして成し遂げられるでしょうか。われわれは、はたして体制者を大衆のなかにとけ込ませることによって、首尾よく彼らを廃絶することができるでしょうか。
たしかにさきほどの御主張通り、私も、目標はここにおかなければならないと思います。なぜなら、私もあなたと同じく、体制者のもつ特権は人間の尊厳と相容れるものではなく、また体制と人間との利害の衝突にあっては、人間が優先されなければならないと考えているからです。これは、それ自体正しいことです。そしてまた、相争っている両世代の間に和解をもたらすのに必要な条件でもあるわけです。
しかしながら、歴史の示すところによれば、これは難事業です。ファラオ時代のエジプトの体制は、中国の王朝体制と同様に、何度も廃絶されましたが、そのたびに復権しています。フランス革命とロシア革命はいずれも旧体制を廃絶するものでしたが、それも結果的に新しい体制者に置き換えたにすぎませんでした。

【池田】 そこで考えなければならないことは、どのようにすれば、人間の宿命、業ともいうべき“内なる心”を打ち破ることができるかという点です。
体制者はなぜ権力を独占し、人間の自由を踏みにじるのでしょうか。本来は人々の幸福と平和のために生まれたはずの体制が、なぜ人間に不幸をもたらし、平和を脅かすものになってしまうのでしょうか。これまでの歴史にみられた旧体制の打破が、所詮は同じような新体制の樹立しか招かないのはなぜでしょうか。――私は、その根本的原因は、この人間の“内なる悪”を破りえなかったところにあると考えます。
これまで、宿命あるいは業といえば、一般にそれは定められたものであり、転換することはできないという考え方が支配的でした。しかし、この概念を打破した革命的な宗教理念があります。
それが、東洋の英知の結晶としての日蓮大聖人の仏法理念です。この仏法は、人間の本性という問題に正面から取り組み、人間が宿命を転換し、宿業を打開していく方途をはっきりと明示しています。そして、真実の人間の尊厳性とは、こうした宿命の転換、宿業の打開によって、初めて確立されうるものであることを説き明かしています。
私は、新旧世代はともに、この意味での人間の尊厳性を認め合わなければならないと考えます。ここを起点とするところから、双方の合意に達する道が開かれると信じるのです。また、そこから、社会の体制や学問の体系、総じては新しい秩序を再建していくことも可能になるものと信じます。
ともあれ、そのためには、いうまでもなく、体制のために人間を犠牲にする一切の行為、考え方をかなぐり捨てねばなりません。具体的には、すべての国家が交戦権を放棄し、徴兵制度を廃止することです。もちろん、ほかの社会機構においても、その権威のゆえに人間の尊厳や生命の安全を脅かしたり侵害する特権は、すべて放棄されなければなりません。
もちろんこれは、世界の現況からみて、決して容易なことではありません。しかし、生命自体に真の尊厳性を認めるならば、当然の結論であろうと思います。要は、人間が自らの意識変革をとしていくことにあります。この変革を実現できるか否かは、人間の行動を究極的に左右する、宗教的な信念とエネルギーをもつか否かによるといえるでしょう。

【トインビー】 私たちの考えは、少なくとも基本的には一致していると思います。われわれが、もし、たんに人類の余剰生産物を公平な割合いで再分配する程度のことしか成し遂げないならば、われわれはこの体制問題の解決に、真に成功することはないでしょう。
人間の尊厳性への認識こそが問題の本質であるという御意見には、私も賛成です。しかし、人間の尊厳のためには、すべての職業が自由をともなう職業となることが要請されます。われわれは“ベルト・コンベア人間”も“組織人間”も廃業させなければなりません。すべての人が、本質的に価値のある仕事、しかもその価値が労働者自身に実感される仕事にたずさわり、そこから生計を得られるようにしなければならないのです。現在、人々が働くのは、たいていの場合、最大限の報酬を得るためであって、仕事そのものに価値を求めて働いているわけではありません。
しかし、今後はもはや現在のように、利益追求の動機が最優先されていてはなりません。
ただし、この最も望ましい動機の転換は、人間の心の変革によってしか実現できるものではありません。そしてこの最も望ましい心の変革とは、人間の内面からの精神変革による以外にないのです。この変革は、経済の次元ではなく、宗教の次元で行なわなければなりません。しかも、それはすべての人間が、個々に成し遂げていかねばならないのです。