投稿者:まなこ 投稿日:2017年 7月 6日(木)08時03分8秒   通報
【トインビー】 近代技術によって生み出された、人間への影響力の強い、マスメディアというこの巨大な新しい力は、中立のものとして用いられるべきです。この点、御意見にはまったく賛成です。しかし、ここで中立という意味を明確にしておくことが必要ですし、また、望ましい中立のやり方で、意欲的に、しかも自由自在にマスメディアを使いこなしていく管理機関を見いだすことも必要です。
“中立”の意義づけは、かなり容易にできる場合もあります。たとえば、民主主義国家で、選挙期間中の宣伝活動のために、マスメディア使用の割り当てを行なう場合などです。この場合、競い合う各政党への時間配分は、各党の数的な勢力に比例して決められるべきでしょう。また、割り当て時間に対する料金は、各党の選挙費用の額に比例して課せられるべきです。そのさい、選挙費用を公表し、それに対する調査証明も行なうべきでしょう。このような時間の配分は、時の政府にも、いかなる政治組織にもよらず、マスメディア管理権を委任された管理当局が行なう必要があります。
しかしながら、ことの善悪・正邪に関する区別は、あらゆる人が個人的に、またあらゆる人間社会が集団的に行なうものです。一体、どんなことが善であり悪なのか、どんな行動が正であり邪なのかについては、極端に意見が分かれます。しかし、これら二つの範疇を知的に区別することに異を唱える人はおりません。また、自分が正であり善であるとみなすことを支持し、邪であり悪であると判断することに反対するのが道義上の義務である、と考える点についても、同じく誰にも異論はありません。そこで、こうした点を考えてみますと、正邪や善悪に関しては、中立を保つことがはたして正しいのか、いや、いったいそれは可能なのか、という疑問が生じてきます。
たとえば、だいたいどこの社会の道徳律でも、政治的圧制、個人的不誠実、一国の国民生活における個人の暴力行為、ワイセツ文書などは、悪であり邪であるとして非難されます。もっとも、こういう類いの悪に関する厳密な定義は、それぞれの社会で異なることでしょうし、同一社会の成員の間でさえ、その道義性が論議の的となっている慣習や制度もあります。その例が、戦争、死刑、自殺、同性愛などです。一個人ないし一社会の判断で、善悪・正邪がはっきりしている問題に関して中立を保つことは、正しいことでしょうか、あるいはまた可能なことでしょうか。
私の個人的な信念としては、このような場合、中立は不可能であるし、たとえ可能であったとしても、それは正しくないと信じます。自分が正とみなすことと、邪とみなすこととの中間で、中立の立場をとろうとするのは、結局、邪とみなすことの側に組みすることにほかなりません。なぜなら、すでにそれは、自分が正とみなすことを支持するという、道義上の義務に違背してしまっているからです。

【池田】 私は、マスコミに要請される中立性とは、その本質が民衆の権利を守るという立場になければならず、また基本的には生命の尊厳という理念に立った報道の姿勢が貫かれなければならないと信じます。
たしかに博士のおっしゃる通り、すべての出来事について中間的態度をとることは、正しい報道とはいえず、むしろ誤りとなる場合もあるでしょう。正邪という問題を含むときは、報道する者の判断、主張が入り込むことはやむをえませんし、むしろそれが正しいといえます。
ただし、正邪という判断は、御指摘のあった通り、時代と社会において異なり、また変動するものです。その判断の基準は、社会の歴史的、伝統的価値観とか、時代の思潮によるわけです。私は、この正邪ということの、時代や社会によって変わりえない根本的な基準として、やはり人間生命の尊厳という理念が据えられなければならないと考えます。マスコミにとっても、ここに基準をおくことが、究極的には中立性を守ることになると思うのです。

【トインビー】 正邪の問題については中立は不可能であるという、重要で実質的な条件が設けられたうえでならば、マスコミは中立的に利用されるべきです。それなら、私も異論ありません。むしろ私は、マスメディアの管理にあたる当局は、道義上間違っているとみなす人々にも言い分を述べる機会を与えるべきだとさえ、あえて提案するものです。ただし、この場合、当局自体がこれらの人々に対してあくまで反対的な立場にあることは、包み隠すべきでありません。
しかしながら、中立であるべき当局の構成員を、いかにして任用すべきでしょうか。さらに、中立的な精神に立つ当局が、実際に自由な立場でマスメディアの中立的な管理を行なうことを、いかにして保証すべきでしょうか。私は、政府の任命や選挙民による選出に頼っていては、中立の精神をもつマスメディア管理機関は生まれそうにないと思います。この機関の構成員を選出するには、各個人の資質に基礎をおくメリットクラシー的な方法をとることを提唱したいのです。
それにしても、マスメディア管理のための資金を、しかもこの管理機関を財政的圧力にさらすことなしに調達するには、どのような方法があるでしょうか。そうした基準の上に立つならば、この機関の収入源としては、政府公官庁が税収のなかから振り当てる金とか、民間企業が支払う広告料金とかを、いずれも拒否しなければなりません。それに代わる一つの方法としては、視聴者に受信料を課すということです。これは、マスメディアの利用を、その料金を支払う能力のある人々だけに限ることになるでしょう。しかし、マスメディアとは、いずれにしても受信装置を買い入れたり、賃借りする余裕のある人々が利用するものです。したがって、受信に欠かせない装置の費用に比べるならば、マスメディアによるサービスに見合うだけの受信料は、比較的少額にすぎないはずです。