投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月24日(土)09時38分59秒   通報
【池田】 他のあらゆる人間の活動と同じく、経済活動においても自己超克こそが自己救済への唯一の道であるという、博士の御主張には私もまったく賛成です。
しかし、同時に博士は、労働運動における目標が、欲望追求から人間存在の本源の探求へと転換されるべき点については、それは自主的にはなされず、何らかの独裁制によって達成されるだろうとの見解を示されました。これに対しては、私は一種の不安を抱いて受けとめざるをえません。もちろん、こうした博士の御見解はあくまでも歴史家としての客観的な推測であって、人類が未来に歩むべき必然の道ではないと了解しますが――。

【トインビー】 もちろんそうではありません。私は、独裁制の確立を望むものではありません。むしろ恐れております。独裁制はそれ自体、絶対悪です。ところが、過去においては、独裁制はしばしば社会の大変革にともなう不可避の代償の一部となってきました。これまで諸民族が、いかに不本意であっても独裁制を容認してきたのは、自分たちで提示したり想像したりできるどんな代案よりも、独裁制のほうがまだ小さな悪であるようにみえたからです。つまり、もはや機能を失ったとわかった体制を社会から取り除くよりは、独裁制を打ち立ててしまうほうが、はるかに容易だったのです。
日本の徳川家康、漢の劉邦、ローマ帝国のアウグストゥスは、いずれも独裁者でした。この三人は、彼らの前任者たち――豊臣秀吉、秦の始皇帝、ジュリアス・シーザー――の創立した似たような体制が失敗に終わったにもかかわらず、いずれも永続的な独裁制の樹立に成功しています。これはなぜでしょうか。彼らの成功の因は、一般世論が、より大きな悪を避けるためにはやむをえないと考える範囲内に、その独裁色を抑えたことにありました。独裁制は、当時、社会的・政治的無秩序という、より大きな悪を前もって防ぐための、より小さな悪として選ばれたのです。
人間は必ずしも、独裁制を自ら招くように運命づけられているわけではありません。しかし、独裁制が出現するとき、それこそは抑制を失った利己主義と反社会的行為に対する報いなのです。私は、現在の世界の安定化は――少なくとも物質面の安定化は――ある程度の独裁力によらなければ、あるいは不可能かもしれないという危倶を抱くのです。

【池田】 おっしゃる意味はよくわかります。たしかに、今日の労働運動における自由放任主義や、経済活動における欲望追求第一主義が大多数の民衆の生活を圧迫し、社会生活を無秩序に落とし入れていることは、独裁制への移行を推し進める契機となりうるでしょう。また、労働組合の指導者や企業の経営者たちが、一般民衆を自分たちの犠牲にしてもかまわないという態度を改めないかぎり、独裁制による新しい秩序を期待する機運が強まっていくことは、避けられないかもしれません。
しかし、このような一見不可避にみえる動向に対しても、これを食い止める道は残されていると私は信じますし、そのために、人類は最大限の努力をすべきであると考えます。たとえば、私が冒頭にあげた公害産業や兵器産業における組合の抵抗の例は、自己の欲望追求のためではなく、社会全体の平和と人々の幸福を守るために立ち上がったケースです。こうした目標のもとに組合労働者たちが団結するに至ったかげには、組合員による自己変革の戦いがあったといえましょう。
しかもそこには、利己という本能的欲求ではなく、社会全体の人々の幸福を守る利他主義の、いわば宗教的ともいえる信念が基盤にあったと思われるのです。さらに、そうした信念に加えて、社会の全体的見地から、企業が撒き散らす廃棄物の恐ろしさや、その生産品が人類にもたらす脅威を考える英知もあったに違いないと思います。
こうした例にみられるように、労働運動の指導者や組合員たちが、宗教を根底とした信念と広い見識と勇気をもって、社会全体の調和をめざす努力をしていくならば、私は、今日の労働運動の帰結が、あながち収拾のつかない社会的無秩序に陥ることはないと信じます。ただし、ここに私のいう自己変革の条件とは、あらゆる人間同胞の苦悩を自己の生命の奥深くに、痛く感じることのできる人格の確立であり、また社会全体との調和を図りうる人格とは、慈悲の精神に満ちた人間性のことです。
もとよりこうした自己変革への戦いは、決して容易な道ではありません。そこには厳しい宗教的実践が要求されましょう。しかし、私は、人間生命のあり方を正しく説き明かした真実の生命哲学、宗教によるならば、人類が自己変革を成し遂げていくことは可能であると信じるのです。