投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月25日(日)16時14分57秒   通報
◆ 2 余暇の増大に対して

【池田】 先進工業社会では、生産手段の機械化をはじめ労働の合理化にともなって、余暇が著しく増大してきており、日本でも、官庁や大企業では週休二日制に踏みきったところもあって、余暇をいかに過ごすかが人々の大きな関心事になってきております。
一般的に、日本人は勤勉で働くことの好きな国民とされていますし、とくに現在中年以上の階層についてはその通りで、彼等は余暇の有効な過ごし方があまり得意ではありません。しかし、若者たちのほうは、むしろ余暇の使い方の巧みさが一種の優越感をもたせるくらいまでになっており、そうした若者たち相手のレジャー産業が繁栄しています。この傾向は今後一層強まっていくでしょうし、それにともなって人生において余暇の占める部分は無視できないものになっていくでしょう。
労働の場合は、各自の持ち場によって、毎日しなければならない行動が決定されていますから、個人はそれをいかに正確に、効果的にやり遂げるかを考えればよいわけで、何をなすべきかに悩まなくてもすみます。ところが余暇となると、まず自分は何をなすべきかということから考えなければなりません。これは多くの人にとっては、むしろ苦しみであるとさえいえるでしょう。

【トインビー】 余暇は人間の選択領域を拡大させます。ところが選択を迫られるということは、かえって苦しい責務となる場合がありますから、人間性としてはなるべく余暇を避けようとします。これは、人々が民主主義から逃れようとする理由に相通ずるものがあります。
人間は、人間性を剥奪されることによって、たとえば機械の歯車と同じような存在にされたときに、自ら決定を下すことの責任から解放されます。こうした人間性剥奪のための伝統的な方法が、政治的独裁と軍隊の訓練、教練でした。しかし、産業革命以後、こうした昔ながらの非人間化の麻酔剤に、機械化された工場での、綿密に組織化された作業の単調さが加わりました。つまり、政治警察や訓練係の軍曹は、ベルト・コンベアという人格をもたない暴君から援軍を得たということなのです。しかも今日では、科学的に管理される機械操作から、すでにオートメーションヘと技術が進歩しています。これは、従来は少数者の特権であった余暇が、あらゆる人々に与えられることを約束しています――というよりは、人々を脅かしています。

【池田】 そこで、近い未来において、仮に一切の生産活動が、機械とコンピュータとロボットによって行なわれ、人間は労働する必要がなくなったと想定してみましょう。もちろん基本的な生産計画の検討やコンピュータヘの指示などは、特殊なエリートによってなされるでしょうが、ともかく大多数の人々は働く必要がなくなったとします。すると、今度は、毎日毎日をいかに過ごすかを考えるのが最大の問題となってきます。そうなると、これはもはや“余暇”とはいえなくなってしまうでしょう。
そうした社会になったとして、たとえば作家、芸術家などのように創造的な才能をもち、そうした仕事に喜びを感じていける人は、退屈で苦しむことはないかもしれません。しかし、そうでない多くの人々にとっては、余暇を過ごすための活動は、非創造的な遊戯やそれに似たものとならざるをえないわけです。
本来、人間は創造的能力をもった動物であり、何らかの意味で創造の喜びを奪われては生きていけない存在ですが、いま申し上げたような事態を考えると、この創造的能力を各自がいかに発掘し、発展させていくかが、余暇問題解決へのカギになってくるのではないかと思われます。

【トインビー】 たしかに、そういった創造的能力を伸ばすことも、またそれらを活用する重要性に気づくことも、ともに必要になるでしょう。なぜなら、過去に余暇を享受してきた人々は、必ずしもそれを十分に有効には使っていないからです。たとえば、特権少数者はしばしばその余暇を重荷と感じてもてあまし、他愛もない娯楽とか、邪悪な戦争とかいう仕事をわざわざ作り出しては、暇をつぶしていたのです。この種の人為的な暇つぶし以外には、こののらくら者たちにはたった一つの仕事しかありませんでした。それは、何ら社会に奉仕することなしに手に入れた彼らの特権を、力ずくで維持するという仕事でした。
このグループとは対照的に、特権少数者のうちでも創造的少数者たちは、余暇を重荷と感じるどころか、むしろ恩恵とみなしていました。彼らは、一生の余暇をすべて仕事に捧げても、なおやりたいことが多すぎて、予定を消化しきれないといった人々でした。このように、過去においては、余暇は有閑特権少数者に特有の問題でした。しかし、オートメーション時代には、大多数の人々がこの問題に直面することでしょう。
人々は余暇を逃れ、余暇の責任から逃れようと熱心に願うわけですが、もし余暇というものが、そうした熱望が示すほど真実好ましくないものだとすれば、きっとオートメーション時代にも特権少数者がまだ存在することでしょう。ただし、この特権少数者は、余暇という特権ではなく、仕事という特権を手にする人々であるはずです。この少数の人たちとは、他の人間から義務的な職務をもぎとってしまうコンピュータを製作し、操作し、プログラミングする、一握りの働き手たちであるはずです。
オートメ化時代以前には、大多数の人々が生計を得るための労働をしなければならなかったわけですが、その仕事に対する態度は、両面的な感情をともなっていました。彼らは労働を強いられると、不公平にも特権少数者だけが免れている重荷を、自分たちが背負い込んでいると憤慨したものです。ところが、いったん職を失うと、今度はたとえそれまでの労働が単調で骨が折れ、気に入らないものであったにせよ、失業したこと自体に腹を立てたのです。