投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月20日(火)08時36分17秒   通報
【池田】 一説によれば、一夫婦がつくる子供の数は、二人ぐらいに抑える必要があるといわれています。さらに何人かの学者は、将来子供を三人以上つくった夫婦を罪人として罰すべきだとまで極論しているくらいです。
そうした法的な規制の是非はともかくとして、将来、何らかの抑制措置を講ずることは、私も必要であろうと考えます。博士は、当面の措置としては、どういう方法が最も現実的だとお考えですか。

【トインビー】 一家族の子供数の縮小は、できるだけ自主的になされるべきです。しかし産めるだけ産むという昔からの、深く根強い習慣を変えるのを、もっぱら自主性だけに任せていたのでは、必要なだけの数の縮小は実現しそうにありません。そこで私は、将来、社会が、なかんずく公的機関が、出産数に対する強制的な規制を加えざるをえなくなるだろうと予想します。
過去においては、出生児の数は、当然のことながら両親だけの関心事であるとみなされていました。もちろんこれまでにも、子供をたくさん産んで大家族にすることが、公的機関によって積極的に、ないしは少なくとも消極的な形で、督励されるというケースはありました。しかし、いかなる全体主義的な政府も、一家の家族数の増減に対して直接的な措置を加えることだけは、これまで差し控えてきています。
しかし、私の予想では、出生児の数は、もはやたんに両親だけの私的な関心事にとどまらず、社会全体の関心事として認識されることになると思うのです。しかも、それは政治上の非常措置といった、実際的な形でなされることでしょう。そこでは公的機関が、権利と義務をもって家族計画に介入するばかりか、効果的な処置を講じるようになり、その最終決定権は両親よりもむしろ公的機関が握ることになるでしょう。

【池田】 私も、公的機関による出産数に対する何らかの規制措置は、やむをえないだろうと考えます。もちろん、出産数を減らすことは、市民の間で自発的に行なわれ、慣習化していくことが望ましいわけですが、それが芽ばえてくるのを待つ間に、絶望的な状況を招いてしまう恐れが多分にあるわけです。
ところで、このような人口抑制手段がとられた場合、いろいろな問題が起こってくることが予想されます。人類は、人口を増やす方向を当然の行き方と考え、社会機構も生活倫理も、それを前提として打ち立てられてきました。その大前提が変わるのですから、これは非常に大きな問題だと思うのです。
そうした問題の一つとして、私は教育の問題があると思います。子供の数を少なくすることは、子供の人格形成や教育のためには不利な条件になることも考えられます。つまり、子供の数が少ないと、親はともすると、いわゆる“猫可愛がり”に傾くため、子供は両親への依頼心が強くなり、わがままな、自立心の弱い子になりがちのようです。日本でも、戦前は子供五人というのが一般家庭の平均でしたが、戦後は多くても三人です。そうした兄弟数の少なさが子供の人格形成に与える影響には、見逃せないものがあるでしょう。

【トインビー】思い切った出産数の削減は、それが自発的なものであれ強制的に行なわれたものであれ、地球全体の破局という、誰もが承服できない事態に代わる唯一の道として、広く世論に迎え入れられていくように思われます。ただし、地球の破局よりは出産数の思い切った削減のほうがまだましだとしても、そこにはまだ厄介な影響が生じてくることでしょう。そうした影響には一時的なものもあれば、永久に尾をひく問題もあるはずです。
一時的な影響の一つとして、各年代層間の正常な数的均衡が崩れるでしょう。そのため、一世代ないし二世代の期間というものは、そのとき壮年期にあるきわめて少数の人々が、老年層や若年層を支えていかざるをえないでしょう。
また、永続的で好ましくない影響として考えられるのは、家族の平均的規模が縮小することでしょう。各夫婦が法定限度までしか子供を産むことを許可されないとした場合、人類全体の立場からは――生物圏との関連からいえば――最適の数となるような一家族平均の子供数も、ひるがえって個々の子供自身の福祉という観点からみるならば、今度は少なすぎるということになるでしょう。
昔、普通よくみられた比較的大規模な家庭にあっては、子供たちは両親から教育を受けるだけでなく、子供同士でも互いに教育し合ったものです。互いに仲良く暮らし、世話をし合うことを学ぶのは、子供たちの社会性を養ううえで、最も重要な教育的要素の一つとなっていました。しかも、これこそ人間教育の核心をなすものです。なぜなら、人間は社会的動物であり、その社会性が適正に伸ばされなければ生きていけない存在だからです。六人の子供がいる家庭といえば、それはすでに一つの小さな社会であり、しかもそれ自体に、正式とはいえないまでも有力な、社会教育上の効果があるものです。これと同じ効果は、子供の数がせいぜい二、三人に限られた家庭からは生まれません。

【池田】 子供同士が接し合うことは、たんなる知識の伝承よりももっと大きい、人格形成という点で重要です。大人は、子供に対する場合、どうしても相手を子供として扱いがちです。子供同士の場合は、あくまでも相手を対等の一個の人格として接します。そうした関係を通じて、子供は自分のわがままを抑えるべきことを学び、男の子は自分より弱い女の子をどう扱うべきかを学びとっていきます。
これは、同じ家族のなかでの兄弟姉妹間にもみられますし、一つの地域のなかでも、近隣の子供たちが集まって一つの子供集団が形成されるなかにみられることです。ところが子供の数が少ない場合、どうしても子供同士の関係よりも、両親と子供との関係のほうが強くなってしまいます。

【トインビー】 そこで、子供の数が子供自身のために最低限必要な数を割らない家庭を、いかにしてつくりだすかが問題となります。われわれは、子供だけの小社会で育つという子供自身の利益と、出産率を減らすという人類全体の利益とを両立させる、何らかの方法を探し出さなければなりません。
この二つの利益の衝突は、残念ながら現代社会の都市化地域では当たり前になっている、小規模構成の家庭で起きております。典型的な都会的家庭は、いまや一組の夫婦に未成年の子供たちという構成に限られています。しかし、こうした小家族というものは、ごく最近の現象にすぎません。それは、過去二百年間にその数が増大した人類のうちの少数者が、工業化、都市化を推し進めてきた産物なのです。
いずれの人間社会にあっても、伝統的な家族とは、祖父母たち、息子や娘とその連れ合いたち、それにその子供たちからなる三代家族でした。こうした伝統的構成の三代家族にあっては、いとこ同士は互いに同届家族として育てられるか、少なくとも隣人同士として育てられるものです。したがって、いとこ同士の関係は、まるで兄弟姉妹のように親密になります。また、たとえ各夫婦の子供数が――自発的にせよ強制的にせよ――最大限二、三人に限られたとした場合でも、三代家族にあっては、子供たちが小社会を形成するだけの人数はそろっていることになります。
こうした伝統的な三代家族は、現代社会でも、地域によってはいまなお残っているところもありますが、はたして今後とも存続できるものでしょうか。また、すでに二代家族へと置き換えられてしまった社会で、再び三代家族を確立することははたしてできるでしょうか。人類のうちすでに都市化してしまった少数者にとっては、この問題の解決は困難になりつつあります。部分的な解決ならば、今日の巨大な都市人口を農村に復帰させることのなかに見いだせるかもしれません。しかし、そうした農村への復帰は漸次的にしか行なえません。しかも、ある程度の都市集中化の現象は、人類の社会生活の特徴として、今後、永久的に続くものと思われます。したがって、われわれは、三代家族を都会的条件のもとでも営めるようにする、何らかの方法を考え出さなければなりません。