投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月18日(日)10時04分16秒   通報
◆ 7 産児制限と家族数

【池田】 産児制限という問題は、たんに個々の家庭の経済が絡んでいる問題であるというにとどまらず、人口問題という、人類が抱えている大きな課題を解決する一つのカギであるといえましょう。
現代のいわゆる人口爆発の主要な役割を果たしている発展途上国において、産児制限がよりよく行なわれることが、人口問題解決への切り札であることはよく知られていますが、その実現には種々の障壁が横たわっています。
一つは道徳観の問題です。人間という崇高な存在を、人為的に出産を制限することによって事前に抹消することは、道徳的に許されるべきでないという根強い考え方があるからです。子供を“神からの授かりもの”とする思想がその主流をなしているようです。
私は、宗教人として、人間生命の至高かつかけがえのない価値を深く認識しているつもりですし、あらゆる人間の行動は生命の尊厳への認識に立たねばならないと強く信じております。
しかし、受胎前に出産を制限し、人間が誕生する可能性を、あらかじめいくらかなくすことは、決して生命の尊厳を踏みにじるものではないと考えています。まして、そのことによって、発展途上国における恒常的な飢餓状態が緩和されれば、それこそ、より現実的に生命を慈しみ尊ぶことになると思うのです。人類が生き延びるため、産児制限をすることが少なくとも効果的である以上、この推進を考えていかなくてはならないでしょう。

【トインビー】 最近に至って、科学の進歩は人間の性関係の問題に二通りの影響を投げかけています。まず、科学は早死率――とくに嬰児や産婦の死亡率――を低下させ、平均寿命を延ばしています。これはいわゆる先進諸国だけでなく、発展途上国にもみられることです。次に、科学は、効果的な、しかも明らかに身体に害のない避妊法を見いだしました。このため、女性は妊娠という当然の責務を負うことなしに、性行為をなしうるようになったわけです。
こうした科学による二つの影響のうち、第一の影響が引き起こしたのが、人口爆発でした。死亡率のほうは、汚染のない水を供給するとか、マラリア病原体の根絶とかいった公衆衛生対策によって、速やかに、また容易に低下させることができます。しかし、出生率の低下のためには、各個人の自主的な行動が要請されます。これには、まず新しい科学的避妊法の知識をもち、それに慣れることが必要であり、同時にこれまでの、産めるだけ子供を産むという人類の伝統的慣習から訣別することも必要となります。結局、すでに達成された死亡率の低下を相殺するための、産児制限の採用が最もおくれているのが、発展途上国ということになります。しかも、これら発展途上国に住む人々の数は、人類のうちの最も多くを占め、また最も貧しいのです。
この、子供をできるだけ産むという衝動は、あらゆる他種の生物の場合と同じく、本来人間にそなわった衝動であり、種の存続を確実ならしめるための企てなのです。もちろん、企てというこの意図を含んだ言葉を、ここでは字義通りに受け取るべきではありませんが――。
この自然の衝動は、人間にあっては宗教的な裁可という形をとって合理的に説明されてきました。たとえば、人間は、死者の霊を弔うのに必要な儀式を執り行なわすため、必ず男児の子孫を産み残さなければならないと信じられてきました。あるいは、ユダヤ系宗教の教義にみられるように、人間は神から「産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ」(ユダヤ教では『モーゼの五書』、キリスト教では『旧約聖書』の創世記第一章二十八節)と命じられている、と信じられてきたのです。

【池田】 生命は尊いのだから産めるだけ産むべきだ、あるいは産むことを阻止すべきではない――という考え方は、もはや改めるべきですね。もしそうした考え方を変えないなら、深刻な事態を引き起こし、かえって生命の尊厳を失ってしまうことになるでしょう。
さらに、古来「子供を産むことが、男としての生殖能力と、女としての能力を示すことである」とする、素朴な考え方があります。こうした意識に対しては、産児制限の重要性を根気強く啓蒙していく以外にないでしょう。宗教的な規制を加えることは、かえってこの間題をむずかしくすることでしょう。

【トインビー】 産めるだけ産めという宗教的な誠告はあくまで仮想上のものですが、私にいわせればこれは迷信にほかならず、実際には何の真実性もないし、道徳的な拘束力をもつものでもありません。にもかかわらず、これが人間の心理に重圧を加えており、人生の最も私的な行為の一つを営むうえで、古来の慣習から訣別するのをますます困難にしているのです。
この点、私は、最近のローマ法王パウロ六世による法令を遺憾に思っています。それは、いかなる人工的な産児制限の方法も用いないという伝統的なローマ・カトリックの禁止令を再確認し、ただ例外として、女性の性的周期のうち最も妊娠しやすい時期だけは性行為を避けてもよいという指示でした。しかし、こうした例外を許すというのは、道理に合わないことです。なぜなら、計算によって性行為を周期的に避けることは、人間が自然の運行を意図的に妨げることであり、その点では避妊薬具の使用と大差ないからです。
私は、これに関する判断の基準は、宗教上の法令や禁止令と考えられているものではなく、人間の尊厳の維持という点におかなければならないと主張するものです。
人間のもつ科学力が、死亡率の低下と出生率の制限をもたらすすべを発見するまでは、人間は、他の自衛手段をもたない動物、たとえばウサギなどと同じく、屈辱的な立場にありました。ウサギの社会では天敵による殺害がなされますが、人間社会でもかつて似たようなことが行なわれていたのです。ただし、人間の場合は、文明の発祥以来、その最も恐ろしい殺戮者となってきたのは、細菌やビールスを別とすれば、じつはほかならぬ人間自身でした。このため、人間の社会でもウサギの社会と同様、最大限の犠牲者数を相殺するために、最大限の出産をしてきたのでした。
人間がウサギと同じ行動をとるというのは、人間にとっては威厳を失うことになります。ウサギには失うべき威厳がありませんが、人間は威厳を失うということがありえますし、またこの場合、実際に失っていることになります。こうした威厳の喪失というものは、科学の進歩によってそれが必要でもなければ望ましくもなくなっているいまの時代にあっては、人間自身が自ら招いたものといえます。

【池田】 産児制限を考える場合、人間の尊厳を基準とすべきだとの御主張には、私もまったく同感です。宗教の命じていることも――たとえばカトリックの禁止令にしても――かつては人間の尊厳性を守ろうとしたものであったと思います。しかし、時代的条件が変わり、もはやその同じ方法ではかえって尊厳性を損ってしまう場合には、その方法を改めるか、やめる以外にありません。そして、真に人間の尊厳性を守る別の方法をとることが、宗教の精神に合致した行き方になるわけです。