投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月16日(金)21時17分26秒   通報
◆ 6 母親業という職業

【池田】 子供はいわば“純白の布地”であり、そこには無限の可能性が秘められています。この子供をどのような人間に育て上げるかは、母親にとっての最大の責任であると同時に、その特権であるといえましょう。たしかに、この育児という仕事は、相当の労力と細かい心遣いを必要とする大変な仕事です。まさに母親の子供に対する限りない愛情があって、初めてできることだと思います。しかも、幼児期は無限の可能性を秘めているだけに、その時期に幼い心に植えつけられる印象は、何ものにもまして大事なものです。
ところで、いま私が問題にしたいのは、この幼児期の教育について、一部においてではありますが、母親もしくは家庭に代わって、社会的な機関を設け、それによって行なうのが未来の理想ででもあるかのように語られていることです。そのような機関によって母親を育児の負担から解放することが、あたかも真の女性の解放であるかのように論議されていることに、私は大きな疑問を感じるのです。

【トインビー】 まったくおっしゃる通りで、子供の人格や気質が形づくられる幼児期にあっては、家庭環境における母親というものは、子供の教育者としてかけがえのない存在です。
子供の性格の一部は、両親から物理的に受け継がれる遺伝子によって、決定されているものと想像されます。つまり、子供は両親の性的結合によってできるわけですが、すでにそのさいに親の性格を部分的に引き継いでいるわけです。しかしながら、人格というものは、各個人の遺伝形質と、その人の環境に対する反応とが、相互に作用し合って形成されるものです。また、人格は人生のあらゆる段階で変えていくことはできますが、その決定的な形成がなされるのは五歳までであり、この人格形成期にあって、子供が家庭で母親に育てられている場合、その環境的要因として主に寄与するのは母親の教育による影響だということは、大方の意見の一致するところのようです。
イギリスでは、第二次世界大戦中に多くの子供が母親の手元から引き離され、人間味の乏しい施設に預けられました。これは女性の戦時動員が図られたためでした。ところで、今日ではすでに成人したこの子供たちについて、その何人かの経歴を調べた心理学者たちは、一様に、この幼児期の生活の激変は、彼らにその後いつまでも悪い後遺作用を及ぼしているという意見を述べています。

【池田】 人間社会の未来は教育のいかんにかかっています。とくに“純白の布地”である幼児期において、そこにプリントされるべきものは、あくまでも人間味豊かな温かいものでなければなりません。
今日、物質的な生産活動に関しては、何をつくるにしても男性のほうが主導権を握っていくことは避けられないでしょう。しかし、物質ではなく人間、それも非常に繊細で鋭敏な感受能力をそなえた幼児を、一人前の人間に育て上げていくという、この人間を対象とする生産活動は、男性よりも女性のほうが適しています。女性には、心の繊細な変化に対して鋭敏であるという特性、しかも、献身的な愛情を捧げるという特質があるからです。 子供は、このように献身的な愛情をもって接してくれる母親の教えやしつけはもちろんのこと、なにげない振る舞いから感情に至るまで、全体像をそのまま敏感に吸収して、いつのまにか一個の人間としてのすべてをそなえ、人間文化の本質を受け継いでいきます。昔から、日本では子供は母親の鏡であるといわれてきましたが、いったん映った映像は容易には消えず、生涯にわたって残っていきます。
社会的機関によって、いかに知能の教育を行ない、知識を詰め込んだとしても、やはり母親と家庭がもたらすすべてを与えることはできないでしょう。

【トインビー】 女性が自らのもつ他の才能を伸ばし、活用しながら、同時に、自身の知識や愛情を幼児に分かち与えられるようにするには、われわれは男性本位でも女性本位でもない社会、両性の利益に合致した、人間のための社会を創るよう努めなければなりません。
人間にとって自由解放とは、いろいろな潜在能力を発揮実現できる自由のことです。そこには当然、男女に共通しない潜在能力、つまり両性の明確な生理的、心理的な特性からくる、それぞれ独自の潜在能力を発揮することの自由も含まれます。

【池田】 男女が、ともにそのもてる能力を十分に発揮できる社会を築かねばならない、という博士の御意見には、私もまったく賛成です。
社会的に実現されるべき男女の平等とは、男女それぞれがその特質を発揮できる機会の平等であり、それに対して受ける報酬の平等であると思います。私は、現代の錯覚の一つはここにあると思います。いまの社会は、まだ女性がその潜在能力を男性と同じように発揮できる平等社会ではなく、男性と同じだけの仕事をしても平等の報酬を受けているとはいえません。
改めなければならないのはこの点であって、家事や育児、あるいは出産等といった、女性でなければできない仕事からの解放は、むしろ人間の生存を行き詰まりに落とし込むことになるでしょう。女性にとっても、これは、いってみれば自分の最も大事な拠りどころというか、根城を放棄するようなものです。むしろこれらを自己の掌中にしっかりつかみ、そのうえで女性の能力の発揮できる機会の平等をかちとり、平等の報酬をかちとることが、女性にとっては有利な、そして誰でも納得できる主張となると思うのです。
ともあれ、女性のすべてがその一生を育児という仕事に縛りつけられているわけではありませんし、女性が社会の種々の活動に男性と同じく従事できるということは、ぜひとも望ましい理想です。もちろん、そこにはいろいろな問題も生じてきますが――。

【トインビー】 この問題の第一の解決策は、出産や育児にたずさわる年代の母親たちが、別に各種のパートタイムの仕事に従事できるように、労働力の配分を再調整してやることです。家庭での雑用が器具の使用によって合理化されれば、母親にも時間ができるでしょう。しかしながら、心理的な面ではそれ以上に困難な問題がでてきます。それは、たとえ女性に母親としての仕事のほかに何か別のパートタイムの仕事をする時間ができたとしても、彼女にとっては、両方の仕事に自分の注意と関心を申し分なくうまく振り分けることは、むずかしいことかもしれないからです。その結果、一方では子供が、またもう一方では職場の同僚が、当然払うべき関心を彼女が払ってくれないと感じて、多少憤慨することになるかもしれません。
もう一つの解決策は、医学の進歩の結果、最近、実働年齢の上限が平均的に延びたために展望が開けたものです。すなわち、女性はいまや申し分のない高等教育を受けることができ、そのため知的職業に従事する資格を身につけることもできます。また、やがて結婚して、子供を産み、育てるわけですが、その間も事態の新しい進展を知り、これに歩調を合わせつつ仕事を続けるということは、十分にできます。そして、ついには子供たちが育って手元を離れたとき、その職業にフルタイムで専念することができるわけです。しかもその頃でも、彼女はおそらくまだ人生の盛りにいることでしょう。――少なくとも、一家の子供の数が家族計画によって自主的に制限されている社会ではそのはずです。
母親であるということは、非常に重要で報われることの多い可能性を秘めており、したがって、女性が母親でありたいと願うのは、ごく自然のことです。

【池田】 社会制度的に幼児教育を考えるならば、その教育の任に当たるべき母親の地位というものは、社会的にも経済的にも保障していく必要があると思います。そして、母親が育児からの解放を願うのではなく、そこにこそ人類文化の担い手としての誇り、使命を感じていけるような条件をつくっていくことが大切でしょう。