投稿者:ClearSky 投稿日:2017年 8月24日(木)01時14分40秒   通報
4. 誰が教義を決めるのか

「創価学会の教義は誰が決めるべきか」を考えてみたいと思います。

池田先生がご健在なら、先生を中心に教学部が考えて、定めていけば良いはずです。
詳細は省きますが、そうなっていない現実が認められます。一例ですが、近年の教学試験教材の内容は、「法華経 方便品・寿量品講義」「法華経の智慧」とはかなり違います。学会教学は一定の意志に従って変質していると思います。

勿論、学会の教義は「日蓮仏法2.0様」やClearSkyが決めるものではありません。

一般的に考えて、「教学室・教学部が考えて」「執行部が認定し」「会則として公表する」ものでしょう。
宗教団体の教義は「オーソライズ(しかるべき権威によって制定・認定されること)」されたものであるべきです。

以下は日蓮仏法2.0様のコメントです。「凡夫本仏論をCleaSkyが取り上げていない」背景に関してのお考えだと思います。
>そうできない背景には、三代会長が正宗教義を信奉し、固辞したという立場を正当化し、その所詮「正統学会教学」から現在のSGが逸脱していると弾劾する構図が見えます。それは教学を離れた教団に関わる政治のレベルの問題となります。私としては、一往、問題のレベルを立て分けて考えるべきだと思っております。<

私の主張が「教学を離れた教団に関わる政治のレベルの問題」と「純粋な教義」の両方を含んでおり、「問題のレベルを立て分けて考えるべき」とのことだと理解しました。尚、この「政治」とは「学会内の権力構造とその運営」に関しての意味で用いられていると思います。

「教義」と「政治のレベルの問題」に関しての私の考えを記します。

(1)学会の教義が会内の政治力学によって歪められている。
(2)「教義を純粋に追求」する面が重要であることは言うまでもない。
(3)学会員の信仰活動、幸・不幸に直結する教義は、歪められた教義であってはならない。
(4)元・教学部のメンバーが排除された結果、歪められた教義である以上、「教義」と「政治のレベルの問題」を分離して議論しても意味はない。
(会員の信仰活動は歪められたままで変わらない。政治のレベルの問題を解決しない限り、教義は修正されない。)
(5)教義だけでなく、会員や世界の人々が幸せにならないシステムは改革し続けるべき。
教義や公明党の問題も気付きのための一助であり、一人ひとりが考えることが重要。
(※)学会の教義は「2014年11月以前」に一旦戻すべきである! ← 一案として

「教義を決めるのは誰か?」
それは本来、「現・教学部」と「執行部」であると先に記しました。そして、私は教義を一旦、元に戻すべきだと考えています。
先生は人を指導する際に慎重に行なうべき事を、「一度壊れた茶碗は元には戻らないんだよ」と指導されていたと嘗て聞いたことがあります。
今回の件は「人」ではなく、「教義」に関してですが、この指導のように、もう壊れた以上、「完全な『元の状態』に戻ることはない」でしょう。

それでも、一度、立ち止まって、本当にこんなやり方、こんな「それなりの教義」で良いのか、一人ひとりが考えるべきだと考えています。
その気付きのための資料になればとの思いで作成しています。
一度教義を元に戻した上で、もしも必要があると主張する意見があれば、正しいプロセスで、皆にも分かるように議論していくべきだと考えます。
この条件下なら、「政治のレベルの問題」を排した、純粋な「教義論争」となるのだと思います。
しかし、この条件なら、私は出てこなくても良いはずです。何故なら、今は排除された元・教学部の方々が議論するからです。私はその議論を見守ります。

もし、学会として教義の復元が実現できないなら、本当に採用すべき教義は一般会員が納得する形で決めるべきだと考えます。
教義に関して言えば、今ならまだ、正常な判断ができる多くの教学部員がいます。戸田先生、池田先生の教学を正しく学んだ人達です。
それらの人の集まりが、真の「創価学会・教学部」です。そのための登用試験を二代会長の頃からやってきたのですから。