投稿者:ClearSky 投稿日:2017年 8月24日(木)01時14分34秒   通報 編集済
3. 試論-東洋哲学研究所での話、戸田先生の指導

「凡夫即身成仏論」の裏表紙に「筆者は一貫して、創価学会の協議を伝統的正宗教義から脱構築するための試論を展開してきた。本書はその続編…」とありました。
私は「試論」との用語に着目しています。ここでは、何年も前に聞いた話ですが、教義・教学に携わる場合に重要だと感じたことを記します。

これはある人から私が直接聞いた話です。話を聞いたのが何年も前のため、内容に正確でない部分があるだろう事を予めお断りしておきます。
その人は東洋哲学研究所で開催された何かの発表を聞きに行ったのだと思います。
研究所の発表では、ある説に関して一方の人は「こうである」と主張し、別の人は「いや、違う」とのことで白熱した(?)議論がやり取りされていたようです。
その際、所長?が「ここは、そういう場ではなく、あくまでお互いに試論ということでやり取りをしましょう」との発言があり、その人はとても印象に残ったとのことを語っていました。

それを聞いて「試論:試みの論」とは大変興味深く、感じたことを思い出します。
教学の最先端を研究する場合には、真摯に議論を重ねる必要があると同時に、大聖人の教義を「こうである」と軽々に断じることは慎まなければならないと感じたものでした。
その意味で、「試論」というのは価値のある方法だと考えます。

また、このことで思い出したのは、戸田先生の教学に対する姿勢です。
昔の書籍になりますが、「講座 教学研究3 特集=観心本尊抄」(昭和57年発行)に池田先生が戸田先生との教学の思い出、教学を学ぶ姿勢について「観心本尊抄に学ぶ」と題して筆を取られています。この中から二つだけ取り上げて、ここに記します。

====引用開始====
昭和二十五年の暮れのことと記憶している。先生と、湘南電車で二人だけの旅をした。車中、例によって御書を開いた。「観心本尊抄」であった。
先生は即座に、日寛上人の文段を開くように命じられた。
(中略:文段の内容が記されている)
その時、先生は車窓から広大な太平洋を眺めながら言われた。
「あの太平洋のような大境涯の信心で、この御抄を拝していかなければ、御本仏の御心に近づくことはできないよ。ただ才智で、御書がわかればよいとする人は、大なる過ちを犯してしまうのだ」と。
御書を拝する姿勢の根本的指導であった。私は稲妻にうたれるごとき衝撃を覚えた。
====引用終り====

====引用開始====
またある時、私は仲間と共に御書を拝しながら論議しあった。その光景を、先生はじっと見ておられた。その御文は「其の為体(ていたらく)本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・(中略)末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」(同二四七ページ)であった。
やがてこの御文の解釈が二派にわかれた。両者とも「こう拝するのが正しい」と言い合って譲らなかった。その時、先生は、「大聖人の御聖訓を凡夫の身である我々が、”こう拝する”と断定することは、絶対にあってはならない。”このように拝せる”とか、”このような拝し方がある”というならまだしも、未だ得ざるをこれ得たりと思う、増上慢になっては絶対にならない」とおっしゃった。この一点は、今もって私の求道への謙虚さの、ひとつの原点となっている。
更に続けて、「御書は、末法の御本仏の経典である。一行一行、一語一語をば、絶対なりと南無しながらの拝読でなければならない。いささかたりとも、我見でわかったように錯覚してはならない」と重ねて言われた。私達が身ぶるいするほどの厳しさが、そこには顕れていた。先生の講義は、まさしく剣豪の修行を思わせるものであり、あいまいな解釈は許されなかった。また信心なき解釈はすぐに見破られてしまった。
====引用終り====

大聖人の真蹟の研究、真偽未決の御書の裁定など研究を推進することは重要だと思います。また、その研究成果を踏まえた上での宗教団体の教学研究であるべきことは言うまでもありません。
宗教団体の教学研究は二代・三代の会長の指導のように真摯な姿勢の上に行なわれるべきであって、大聖人の真意に肉迫していくべきだと考えます。
私が「日蓮本仏」で良いと考える理由の一つも、このような指導を受けてのことかもしれません。

更に、創価学会という宗教団体の教義は、多方面からの検討の上に定められるべきものです。一部の人間が、気に入らない人間を排除して定めるものではありません。
教学研究は、特に初期段階にあっては「試論」というところから出発し、議論を重ねる方が価値的だと考えます。
一部の試論が検討を経ないで、いきなり教義に成り上がるのは問題だと考えます。
更に、元・教学部の方が慎重に対処するようにとの説得を試みたにも関わらず、また先生の意向を無視して、一学説を教義に制定するのは度を越しています。
慎重に議論を進めるべきだったと考えます。

勿論、学会組織を破壊しようとする内外の勢力から、学会員を護るためには、悠長なことではいけませんが…。
広宣部・教宣部の皆様、常日頃の活動・研鑽、お疲れ様です。