投稿者:ClearSky 投稿日:2017年 8月24日(木)01時14分25秒   通報
2. 私の主張

以下は日蓮仏法2.0様のコメントです。
>私の提唱する人間主義の凡夫本仏論を、正宗教学の日蓮久遠本仏論と宮田さんの釈尊回帰の立場の間にある中道路線の一つのオプションとして提示されていないのが残念です。<
「凡夫本仏論をCleaSkyが取り上げていないことを残念」とのことだと思いますが、ここではその理由を記したいと思います。
話を進めるにあたって、最初に私の主張を述べさせて頂きます。

(1)日蓮本仏を支持
(2)池田先生の指導を根幹に学会は進むべき
(3)2014年11月以降の一連の教義改定は不要

(1)に関しては、先に述べたように、私は、日蓮仏法2.0様の「日蓮本仏を否定した前提での凡夫本仏」には抵抗感があります。
「本仏」に関しての定義が、日蓮仏法2.0様と私の間では違っているのが第一ですが、この他にも生命観、大聖人の出世の本懐、御振舞からの考察などに関しても、いつか私の意見を記させて頂きたいと考えています。
また、「大聖人・釈尊・凡夫の生命に関する考察」「本尊を図顕した仏(本仏)」「十号を備えた仏」という側面の考察も必要なのではないかとの考えです。

(2)に関しては、先に、①従来(2014年11月以前)の学会教学と②日蓮仏法2.0と③宮田学説を比較しました。
ここで、①従来の学会教学と②日蓮仏法2.0には違いを認めることができます。多くの点で違いますが、両者の違いの根源は「日蓮本仏の採否」だと考えています。
これに関しては、また改めて・・・。

一方の③宮田学説ですが、現在の学会教学は、少しずつこの説に修正されているように感じます。しかも、この修正の度合いは年々加速していると思われます。
この学会教学の修正は、宮田氏が学会教学室のアドバイザーであるとのことなので、当然かもしれません。
しかし、この修正内容は、池田先生がかつて指導されてきた内容とは異なっています。
もし仮に、「池田先生の指導と異なった教義」であっても、「合理性があれば修正を受け入れるべき」との考えもあるかもしれません。
それは、修正内容である宮田氏の学説が合理性を有しており、修正方法も「会員が悩んだり苦しんだりしない」形を十分検討する必要があるでしょう。
(私は修正する必要はないと思っていますが・・・・)

では、宮田氏は教義に関してどのように考えているのでしょうか?
以下は「SGI各国のHPの教義紹介の差異について」からの一部の引用です(http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/sgihp.html)。
学会から脱会して日蓮正宗に戻った人物に関しての記述ですが、現在の学会員に関しての記述もあります。

「私は宗教にとって教義はそれなりに重要であると考える一人であるが、日蓮正宗の教義がもはや何の学問的説得力もないことにまだ気づかないで、日蓮正宗の信仰に戻ったことを嬉々として語るそのメンタリティに、それはいまだ日蓮正宗の教義を批判的に総括できない創価学会の会員にも共有されているようだが、この人たちは私とは違う世界に生きているとしか思いようがない。」

ここで、宮田氏の論文のこの一部で気になった点を挙げると
①「宗教にとって教義はそれなりに重要」
この教義に対する姿勢は、学会教学に携わる人としては首をかしげざるを得ません。
教義の証明は難しいとしても、絶対の真理として定める宗教の教義は「極めて重要」だと私などは考えますが、「それなりに重要」とあります。
もしかすると「教義は重要」だが、「それにもまして重要な何かがある」と考えているのかも知れず、氏の真意を慎重に判断する必要があります。
また、「文は意を尽くさず」と言いますから、真意を様々な点から検証する必要がありそうです。
(「大聖人は自分で本仏と言っていないから本仏ではない」と主張する人であっても・・・・)

②「日蓮正宗の教義を批判的に総括できない学会員は私とは違う世界に生きている(主旨)」
残念です。未だ総括してない人も既に総括できた人も、同じ娑婆世界に住む住人かと思ってました。

確かに、誰でも、論文を自由に記述する自由はあるでしょう。
一方で、様々なものの中から何を信じるか、またそれを判断する自由も人は持っています。

個人的な印象を記しますと、宮田氏の教義は乱暴だと感じます。また教義の展開方法も誠実且つ真摯に行なわれていないのは、異なる意見を持つ者を「違う世界」に追いやるような姿勢です(追放は宮田氏ではなく、執行部の一部ですが)。その結果が、2014年の教義変更となったと私は考えます。
更に、それを諌めようとした元・教学部のメンバーを排除したことは問題だと考えます。

元々、私が「大聖人観と御本尊観」シリーズを書き始めた理由は2014年の会則の教義条項の変更に、「先生の成し遂げられてきた功績を破壊」する「何か」があるとの考えからです。その「何か」とは、先生を蔑ろにする勢力であり、会員を利用する幹部であり、それに対して戦わない心だと思います。
また、教義に於いても、「次第に改変されていく学会教学」と、「従来の先生の指導に基づいた以前の学会教学」を比較する場合、後者である池田先生・三代会長の教学を根本にすべきだとの考えです。
そのため、このシリーズでは「2014年以降の改変された教学」と「従来の学会教学」を優先して取り上げています。

「日蓮仏法2.0」と私の支持する「従来の学会教学」とは相違がありますが、それは「日蓮本仏の採否」という一点から起きているのだと個人的には考えています。日蓮仏法2.0様は「試論」として「凡夫本仏論」を上梓され、真実を求めて議論したいのだと感じています。
また著作(凡夫即身成仏論)を拝見しても、①池田先生の著作から論点を説き起こしたいという姿勢が感じられる、②池田先生との思い出を大事にされている、③欧米SGIの不条理な組織実態(「教団内部の権威主義と階層制度、寄付金・財務の不透明な管理、・・・・思想・言論・批判の自由の抑圧・・・」)に対し危惧していることが記されています。日本の創価学会、SGIに於いて、どのような教義であるべきか考えたいとのベクトル(方向性)は同じ方向かもしれないと考えています。

故に、このシリーズで、「日蓮仏法2.0」を、「現・学会教学」と同様の批判の対象としてはいません。
(未だ十分読み込めていないですし、私も議論のベースとなる考えを伝えてませんし)。
もし、より深く議論する場合でも、私の今回のシリーズの資料を議論の場(従来の学会教学と日蓮仏法2.0との議論)にしない方が良いと考えました。
たとえ、最終的に教義の合意を得られなくても、日蓮仏法2.0様の主張を先ずはもう少し理解したいと思います。

(日蓮仏法2.0を取り上げなくて)「残念」とのことですが、このシリーズではその方が良いのかなと考えてのことでした。
「大聖人観と御本尊観」シリーズの第五章では、私の議論のベース(生命観、大聖人の出世の本懐、御振舞からの考察など)を記そうと思っています。