投稿者:ClearSky 投稿日:2017年 8月24日(木)01時14分18秒   通報 編集済
1. 教義の比較

本投稿は、日蓮仏法2.0様の投稿に対するコメントです。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/72590

しかし、掲示板を閲覧している方にも理解して頂きたいと思い、下記の三論の違いが分かるよう、細かいところは省いて特徴的な項目を表にしてみました。
日蓮仏法2.0様は既に熟知されており、必要ないと思いますが、掲示板の読者の方向けにもご興味があれば理解して欲しいと思い掲示します。

(1)従来の学会教学(2014年11月以前)
(2)日蓮仏法2.0説
(3)宮田学説

最初に確認です。
掲示板の閲覧者の方が、より詳細を理解するためには「凡夫即身成仏論」の書籍を読んで頂くにしても、日蓮仏法2.0様の意図する所として、別表の要点は、凡そ間違っていないでしょうか?
以下は、日蓮仏法2.0様の説を「日蓮仏法2.0」と記します。

特徴的な点だけ記します。

(3)に関して
■学会教学室・アドバイザーの宮田氏の学説(宮田学説)は、従来(2014年11月以前)の学会教学の根幹を否定しており、
これは同時に池田先生・戸田先生の過去の指導を否定するものでもあります。
後ろ盾の威光を頼みとした宮田氏の次のような主張が確認できます。
「(教義変更は)皆、いつかは変えなければと思ってきた。池田先生が亡くなった後に変えるのか、生きてるうちに変えるのか、そういう選択です(日本宗教学会の講演 2015年)」
「私は現在創価学会の本尊論構築に向けて研究を進めている(「優陀那日輝『本尊略弁』の構成と諸問題」から)」

(2)に関して
■日蓮仏法2.0様の主張は、文底仏法は堅持しながらも、「本仏とは凡夫」であり、「日蓮大聖人は久遠の本仏ではない」との主張から全てが始まっていると考えます。
一見すると「従来の日蓮本仏の学会教学」の上に、「凡夫こそ本仏」を強調した論であるとの印象を受けますが、実は「日蓮本仏」を否定した上での「凡夫本仏」だと考えます。

(1)に関して
■「従来の学会教学」とは、2014年の会則の教義条項の変更前の教学を意味しています。
厳密には2002年位以前の教学という方が良いのかもしれませんが、ここでは2014年11月以前とします。
日蓮大聖人を主師親の仏として、凡夫の成仏を目的とする本仏観と考えています。

——
(補足)
「凡夫本仏」に関する私の考えは、機会があれば改めて記したいと考えています(この考察のベースとなる資料は後日)。
ここでは、印象のみ記します。

私の周りでは、「凡夫即身成仏論」を読んだ感想を聞くと、素直に受け入れ難い印象を語っており、私の印象も同様です。
その抵抗感の源を考えているのですが、その一因は「本仏の定義」でもあるのではないかと考えています。
勿論、学会員のほとんどは、「凡夫即仏」「凡夫成仏」を支持しています。しかし、私は「日蓮本仏の否定」の上に「凡夫本仏」との主張には抵抗感があります。掲示板で違和感を持たれている方も同じではないでしょうか。

凡夫本仏論での「本仏」は「迹仏」に対する用法に由来しているのだと思いますが、この認識は正しいでしょうか?
(一例:凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり:諸法実相抄)

日蓮仏法2.0でいう「本仏」の定義は「『本仏』とは実在する人間に仏性が現成すること」(凡夫即身成仏論 99頁)とあります。
私(達)は、仏法における「師弟」の重要性を重視しています。自分自身を法を求める弟子とした場合の師匠です。
仏法、特に大乗仏教では、「自身の悟り(仏界)の成就」と「他者の救済の実践」を菩薩の修行に求めています。
特に菩薩の修行に於ける前者は、小乗教が悟りを得たとしても仏にはなれないと考えていたのに対し、自身の仏を開く(成仏する)教えです。

更に言うと、私を含め多くの学会員は、後者の「自身と他者」の関係に於いて、自分が救済者・師匠になるというよりも、お互いに同志として共に師の教えを求め実践すると言う実践形態を採っていると考えてもよいと思います。
この「師弟」の「師」を敷衍して、「主師親」の振舞が仏の定義でもあると思います。
多くの学会員が、「本仏」に関しては「主師親」や「仏の十号」で述べられているところの「仏」のイメージを有していると私は感じます。
戸田先生も「人々が仏を感ずる、指導者を欲する、それに応じて仏が出現する」と指導されています。そのような「本仏」のイメージを持っているのだと思います。
一方、それを自分に当てはめて「私が本仏だ」とは素直に宣言できず、抵抗感が生じているのではないでしょうか?

また、嫌いな人物を思い浮かべてみます。「その人物も本仏」だと思えるようになるには相当な人間革命を重ねて行かなければなりません(笑)。
確かに、善悪無記であり、また、極楽寺良寛や平左衛門尉が善知識なのですから、境涯が高くなればそう思えるのでしょう。
一般的な感覚では、「皆が仏なんだから・・・」とは思えても、「皆が本仏なんだから・・・」という感覚は、仮に正しいとは分かっていても、感情的には修行が必要だと思います。
「皆が仏…」と「皆が本仏…」の両者は似ているようですが、意味が違ってきます。
読んだ方が抵抗感を感じるのは、このようなことなのではないでしょうか?

たとえ違和感を感じている人を含めて、学会員の多くは「凡夫こそ本仏」との考えを否定するものはいないと思います。
しかし、「日蓮本仏を否定」して「凡夫本仏論こそが正しい」との主張には抵抗感がある、というのが正直なところではないかと考えています。

感覚的でファジーな意見ですみません。

他にもありますが、詳細は、今は省きます。