投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 8月12日(土)16時23分31秒   通報
― 文証 ― 次に西山論文の一部抜粋とそれに関連する資料を提示します。

(※読みやすいように改行変更しました)

―■― 西山論文・抜粋と関連資料(文証)の内容 ―■―

①【西山論文・抜粋Ⅰ】「法華仏教研究」第24号140頁から142頁。

②【関連資料Ⅰ】妙悟空著『小説・人間革命』。

③【西山論文・抜粋Ⅱ】「法華仏教研究」第24号142頁から143頁。

④【関連資料Ⅱ】法悟空著『小説・人間革命』第4巻「生命の庭」。

⑤【西山論文・抜粋Ⅲ】「法華仏教研究」第24号153頁から154頁。

⑥【関連資料Ⅲ】法悟空著『小説・人間革命』第5巻「烈日」。

⑦【関連資料Ⅳ】「創価学会の歴史と確信」戸田先生の論文(昭和26年7月10日)。

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【西山論文・抜粋Ⅰ】「法華仏教研究」第24号140頁から142頁。
以下、『全集』の中の妙悟空の『人間革命』の記述のなかから、
看守の暴力や入浴などの状況描写の側面を除いて、

2度にわたる「巖さん」の獄中の神秘体験の内容を抜粋して箇条書きにしてみたい。
①3月の初旬、思索と唱題、法華三部経の読み直しを繰り返した「巖さん」は、
無量義経徳行品の十二行の偈(仏の「其の身」について「~に非ず」という
否定の表現が34も続く偈)にぶつかって暫く苦悶していたが、やがて、

「仏とは生命なんだ!」「仏とは生命の表現なんだ!外にあるものではなく、
自分の命にあるものだ!いや、外にもある。
それは宇宙生命の一実体なんだ!」と手を打って叫んだ。

②11月に入って、「巖さん」は、地方裁判所での取り調べがない時期に有名な
小林一郎の法華経の講義録などを読んだりしたが、彼の法華経の理解は一向に進まなかった。
こうして11月の中旬を迎えたある日、彼は唱題の最中に、数秒か数分の間、「數限りない大衆と
一緒に虚空にあって、金色燦然たる大御本尊に向かって合掌している自分を発見した」。

これは、「巖さん」にとって、彼が法華経従地涌出品にある
虚空会の儀式に参加していたという神秘的な体験を意味していた。

③この体験の直後、まだ興奮さめやらぬ「巖さん」は、
「おお、おれは地涌の菩薩ぞ!日蓮大聖人が口決相承を受けられた場所に、
光栄にも立会ったのだぞ!」といって机のある場所に帰り、法華経の従地涌出品と
寿量品、嘱累品を読みなおした。

④以後、「巖さん」は、今まで難解であった法華経が手の内に玉を見るように
易々と読め、的確に意味が汲取れるようになっただけでなく、
まるで久遠の昔に教わった法華経が今日に思い出されたような不思議さを覚えた。

⑤こうして、「巖さん」は、「よし、ぼくの一生は決まった!
この尊い法華経を流布して、生涯を終わるのだ」と決意した。
『小説・人間革命』に書かれた「巖さん」(戸田)の2度にわたる獄中の神秘体験は以上のものであるが、

第1回目の神秘体験が法華経の開経(法華経以前)である無量義経によるものであったことと、
第2回目のそれが「大御本尊」(大石寺の戒壇本尊? 違うという説もある)に向かって唱題中の
ものであったことの二点が、

いまの創価学会がそれらを自らの教えの原点とする際には、違った脈絡で問題となるところである。

(抜粋おわり)