投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 8月12日(土)10時00分8秒   通報 編集済
以上、本稿では、「創価学会の基礎思考Ⅱ」と題して、戸田の「獄中の悟達」(獄中の神秘主義)について考察してき
た。
戸田の本尊論も戒壇論も大石寺の戒壇本尊を中心としてものであったから、今日の創価学会のそれと同じではない。
戸田の「生命論」には日蓮正宗の刻印はあるものの、それ自体としては牧口の価値論とともに、日蓮正宗にはな
かった創価学会独自の基礎思考といえる。
だが、池田大作の「(人間主義的な)広宣流布観」もまた、創価学会の3つ目の基礎思考に加えなければならない。しかし、
これは、国立戒壇論や本尊流布を中心とした広宣流布観といった戸田時代の思考の「歴史的な制約」を克服した上での、
より新しい広宣流布観であった。
新しい池田の広布観について定義的にいえば、「妙法の大地の上に展開する文化運動」であるが、この定義の
なかには宗教的な本尊という言葉がなく、広宣流布の目的はあくまでも妙法を基盤とした理想の社会と文化の建設であ
る。これが「人間主義」と呼ばれる所以であるが、特定の宗教の繁栄よりもあるべき人間と社会の建設をめざす志向性
は、牧口の創価教育学会創立の原点でもあった。
なお、池田の「人間主義」的な広布観についての筆者の詳しい考察は、近々に「創価学会の基礎思考Ⅲ」(本誌「法華
仏教研究」に発表の予定)を書いて、別考したい。
それにしても、教学には門外の宗教社会学者がこのような教学がらみの論文が書ける理由の一つに、ときどきの教学が
しばしば教団の置かれた利害状況の函数である場合が多く、教学の門外漢でも研究が可能になるということにある。
「理念と利害状況」(H.H,ガースの言葉)の社会学とはM.ウエーバーの宗教社会学のことであるが、本稿の基底に
もこの発想が潜んでいる。はやく、門外の宗教社会学者たちが教学の問題を取り扱うことのできないようになることを祈
りたい。
その意味で、日蓮正宗と決別した創価学会が、「利害状況」に左右されることのない、普遍性をもった現代教学の構築
を期待するものである。
― 論文内容おわり ―(※縦書きを横書きに変換するに当たって、漢数字を算用数字に変えました)