投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 8月12日(土)16時24分26秒   通報
【関連資料Ⅰ】妙悟空著『小説・人間革命』

「ああ、判りたい! 法華経の真理を知りたい!」

もはや、厳さんの念頭に、壊滅に瀕している事業のことも、釈放の願いも、帰宅の焦りもなくなって、
法華経の真理が掴めないでいる・・・・おのれの鈍根にいら立って、幾度、頭を打ったことか。
夜は寝苦しく、覚めれば烈しい悶えがつづいた。(中略)

十一月中ごろの、水のように空が晴れている・・・・ある朝のこと、
厳さんの題目を唱えている声が独房から洩れていた。

もしも、鉄の扉の前に立って、朝々、声に聞き入る人があったら、
彼の唱題している声から挑みかかるような烈しさが消えて、
静かに澄んできているのに気が付いたであろう。

日夜、苦悶をつづけて、今は疲労のどん底にいるのだが、法華経と取り組んで熱烈に思索し、深く瞑想し、
苦悶をつづけることによって、心の濁りや身体の錆(さび)が落ちてきたとはいえないであろうか。

「南無妙法蓮華経・・・・南無妙法蓮華経・・・・」

東の空へ昇った太陽が独房の窓へ射し込んで、牛乳びんの丸いふたでこしらえた数珠を
手にしている厳さんの額や鼻のあたりを琥珀色に染めており、時々陽射しを跳ねてメガネが光っている。
今年になって数えはじめた題目は、百八十万遍を超えている。(中略)

厳さんの心は、今、春の野を吹く微風のように軽く柔らかくて譬えようもなく平和であった。
夢でもない、現(うつつ)でもない・・・・時間にして、数秒であったか、数分であったか、
それとも数時間であったか・・・・計りようがなかったが

〝彼は数限りない大衆〟と一緒に虚空にあって、
金色燦爛たる大御本尊に向かって合掌している自分を発見した。

そして、法華経二十八品の内の従地涌出品にある
「この諸々の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を聞いて、下より発来せり。
一一(いちいち)の菩薩、皆これ、大衆の唱導の首なり。
おのおの六万恒河沙等の眷属を将いたり・・・・」(中略)

彼は経文通りの世界にいることを意識している。

厳さんはこの大衆の中の一人であって、永遠の昔の法華経の会座に連なっているのであり
・・・・(中略)これは、嘘ではない! 自分は今、ここにいるんだ! 彼は叫ぼうとした時、
独房の椅子の上に座っており、朝日は清らかに輝いていた。

厳さんは一瞬茫然(ぼうぜん)となったが、歓喜の波がひたひたと寄せてきて、全身はもまれ、
しびれるような喜びが胸へつき上げてきて、両眼から涙が溢れだし、

袂(たもと)をさぐってハンカチを取り出して、メガネを外して押さえても、
堰(せき)を切ったように涙が湧いてとめどがなく、彼は肩を震わせて泣きつづけた。

(おお! おれは地涌の菩薩ぞ! 日蓮大聖人が口決相承を受けられた場所に、光栄にも立ち会ったのだぞ!)

・・・・(中略)
彼はメガネの内で幾度となくまたたいたが、今、眼の前に見る法華経は、昨日まで汗をしぼっても
解けなかった難解の法華経なのに、手の内の玉を見るように易々(やすやす)と読め、的確に意味がくみ取れる。

それは遠い昔に教わった法華経が憶(おも)い出されてきたような、
不思議さを覚えながらも感謝の想いで胸がいっぱいになった。

……………(関連資料Ⅰおわり)………………
「妙悟空の『小説・人間革命』は、1951年の4月に創刊された『聖教新聞』紙上に
3年あまり連載された後、1957年に精文館から初版が出され、『戸田城聖全集』の
第8巻(=小説編、聖教新聞社、1988年)にも収録されている。本書の主人公は
印刷工場を経営する『巖さん』であり、彼と戸田とは経歴の設定が違うものの、
小説のスタイルとしては戸田の自叙伝のかたちをとっている」(西山論文より)
※ここで注目すべきポイント
妙悟空の『小説・人間革命』は、戸田先生が会長に就任する(=発迹顕本する)以前に書かれたものであること。