投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2017年 7月31日(月)02時32分7秒   通報
21世紀への選択   求められる「対話」の精神 p40

池田
さて、テヘラニアン博士は、私たちの対談を始めるにあたって、これを「対話への選択」と意義付けたいと提案されましたね

テヘラニアン
はい、会長と二人の卓越した学者、アーノルド・トインビー博士との対談集『生への選択』

(英語版タイトル、日本語版は『二十一世紀への対話』)、ヨハン・ガルトゥング博士との

対談集『平和への選択』は、興味深く読ませていただきました。

二つの対談集ではそれぞれ、平和的な手段によって平和を探求し、生命の尊厳をいかに

保つかというテーマに、主として焦点が向けられていました。

いずれも、人類そのものとともに始まった古くからの問題であり、同時に今日において

もきわめて重要な問題であることに変わりありません。

しかし、いまや私たちの時代は、この「生命」や「平和」と同程度に、「対話」が必要と

される歴史の段階に入ったのです。

実のところ「対話」こそが、「生命」と「平和」を保障しうる唯一の手段かもしれないのです。

池田
そうした思いを共有して、私は、この対談の日本語版のタイトルを「二十一世紀

への選択」と発案させていただきました。

思うに、人間の人間たる証は、つまるところ対話の精神に表れるのではないでしょうか。

博士の故国イランの大詩人・サアディーは、こう訴えています。

「人間は語ることによって、獣にまさる。よいことを語らなければ、獣が汝にまさる!」
と。

テヘラニアン
同じく「ペルシャの三大詩人」の一人であるルーミーも、同様のことを繰り返し訴えていました。

そのルーミーは、異なる地域で誕生した文化的遺産・・・仏教とイスラムの教えを結びつ

けながら、二つの文明の橋渡しをしたのではないか、と私は考えています。

池田
サアディーにしても、ルーミーしても、言葉を生命とする詩人であるからこそ、「対話」の重要

性を肌身で感じ取っていたのでしょうか。

ともあれ、異なる文化、文明間の橋渡しという作業が、二十一世紀における大きな課題

となってくることは間違いありませんん。

テヘラニアン
ええ、今日では市場と社会のグローバリゼーション文化間文明間の接触が親密になり、

大規模になってきました。

しかしその半面で、経済と政治の組織や体制は協力的であるとともに競争的になり、交流や

協議の機会はあるものの、認識や利害が対立する状況を招いています。

こうした「接触」に、当然ともなうべき対話が欠けているかぎり、残念ながら、事態

は暴力と圧制の下にあるのと同じく、「憎しみの種子」がこれからも蒔かれ続けていくでしょう。

それこそ何年も、何十年も……。
池田
そのような時代状況を踏まえて、「文明の衝突」論(ハーバード大学のサミュエル・

ハンティントン教授)などが一部で唱えられていますね。

しかし、衝突が不可避であると考えることは、正しくありません。

そればかりか、対立の構図を安易に固定化させてしまう危険がある、と私は考えます。

仮に衝突が起こったとしても、真の原因は文明そのものにあるのではなく、そこに巣く

う野蛮性にあるのではないでしょうか。

文明同士ではなく、異なる集団を認めようとしない野蛮性が衝突するのです。

こうした事態を防ぐためにも、あくまで人間にそなわる善性を信じ、そこに呼びかけ働きかけて

いく「対話」の精神が何よりも求められるのです。

テヘラニアン
おっしゃるとおりです。

友か敵かの関係に対応する手段として、「対話」が選択されるならぼ、互いに相手をよりよく

理解できる可能性、そして、それによる認識と利害の相互的な受容という可能性が、希望として

開かれてくるはずです。

池田
「対話」こそ平和への武器です。これは、仏教の根本精神でもあります。

釈尊が生きた当時のインド社会は、ある意味で現代とよく似た、社会の変革期で価値

観が混乱していた時代であり、いろいろな勢力が相対する暴力的な時代でした。

家の中ですら、武器を手放せなかったともいわれています。

そんな乱れた社会にあって、釈尊は、人々の幸福のために、生涯、国々を遍歴し、平和への

行動を貫きました。

その武器が”非暴力の対話”でした。釈尊は対話によって、「生命の尊厳」を説き、暴力の排除へ

と社会をリードしていったのです。