投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 7月20日(木)12時53分26秒   通報
さて、話は変わりますが、学会員同士や幹部と会員の間で、

思想(宗教)の正邪を厳しく判定していこうとすると、必ず

「それぞれ考え方は自由なのだから、会員同士でどちらが
正しいかという議論や、攻撃をするのはよくない」

という人がいます。

これは一見もっともらしい発言ですが、
その陰には極めて独善的なドグマがあるように思う。

なぜかといえば、それは
「考え方(信ずる教え)」と「宗教の正邪」とが混同しているからです。

大聖人は教機時国抄の中で

「教とは仏説から出た一切の〝経・律・論〟をいうのである。
これからはずれたものは外道である(趣意)」(四三八頁)

と述べています。

つまり、考え方の違いや信教の自由は
「世法的・政治的」の個人の権利を保障しているものであり、

宗教の正邪は、宗教の次元の問題です。

信仰における考え方の正邪を議論する場合、信仰が権力によって
拘束されるべきでないのは当然であり、

宗教の場では、自由に正邪・高低が論争されるべきなのです。

これこそ会員一人一人が自らに与えられた「信教の自由」を
最も責任をもって行使した姿勢であり「教を知る」ということではないかと考えます。

なぜ、そう考えるのかというと、会員自らが教学を研鑽することもせず、
宗教批判の原理も知らず、無智なままでは

「人間のための宗教」ではなく「宗教のための人間」になる恐れがあるからです。

絶対にそうしないために、人を頼るのではなく、組織を頼るのでもなく、
まずは自ら教学の研鑽に挑み、各人(幹部・会員)が主張する

「生命観、世界観、幸福論、倫理性、思想性」を
比較評価すべき妥当な基準がどうしても必要なのです。

宗教批判の原理とは、そうした思想に対する認識の基準であり、
会員の自主的な選択究明を可能にする基準です。

これらは何も「仏法の正邪」に限ったことではありません。

一つの〝思想や考え方〟を検討する場合、三つの基本的な立ち位置があります。

その第一はその〝思想や指導や意見〟がいかなる文献に基づいているかということであり、

第二はその内容が、非科学的、非論理的なものでないかということです。
つまり、話の内容に整合性や筋道が通っているかという意味です。

そして第三は理論を現実に当てはめてみた場合、現実と矛盾しないかどうかということです。

この判断基準を仏法では「三証(文・理・現)」といいます。
・・・つづく