2017年7月20日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 7月20日(木)16時59分8秒 通報 教義や幹部の指導、また会員の意見等を評価する場合も まったく同じで、この三つの立場から合理的に判断していけば、 正邪・優劣はおのずから明確になります。 では、この三つを私たちに置き換えて、具体的に見ていきましょう。 【文証】 文証とは、幹部の指導する内容や会員が主張する意見が、 いかなる文献上の根拠に基づいているかということです。 繰り返しになりますが、大聖人は涅槃経の 「もし仏の所説に順わざる者あらば当に知るべし、この人は是れ魔の眷属なり」(一五二頁) の文を引いて、 仏法における正邪の判定には文証の有無がもっとも重要であると教えられています。 その他にも 「我らが如き名字の凡夫は、仏説に依りてこそ成仏を期すべく候」(一二七八頁)、 「仏法の邪正をただす事、皆経文をさきとせり」(一二〇七頁)、 「人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候」(一一五五頁)等々、 諸御書で文証の重要性を説いています。 この文証(経・律・論)があるかないかが判定の一つの基準になるのです。 たとえば、自分は先生から直接訓練を受け、結果も出し、 御書も真剣に研鑽して戦って来たと、幹部や会員が主張したとします。 その時、その幹部や会員が、先生の指導と御書の教えに、忠実にかつ 正確に依っているのかどうか――このことを御書・先生指導の文証によって、 どう「裏付けられるか」で判定するわけです。 Tweet